赦すか 赦さないか って悩んでる時点では 到底赦せそうにない
タイトルだけで十分とも思ったけど、やっぱりいろいろ書きたい。
ずっと「闘い」の人生だなと思って生きてきた。ほんとに。
敵キャラみたいな存在が現れたら倒す。困難な状況に直面したら、攻略を練って、突き進む。苦悩の中でのたうち回って、立ち上がるための光を探す。光を感じることには、投資を惜しまない。
闘いが終わる時って、人生が終わる時かも、くらいに思ってたので、生きようと思うと、どんどん敵キャラを呼び寄せなきゃいけない設定で生きてきた。だから、誰もが敵になり得る。その人たちは永遠に敵キャラのままか、自分にとっていい形での和解を経て、ちょっと濃いつながりの知人になるか、あるいは繋がりがなくなるか。
こんな人生を送る要因となった人たちのことを「赦すべきか、赦さないのか」という見方で見てきた。長い間、許せそうになくて、そんな自分を心が狭い人間だと思ってきた。
最近思った。赦すか赦さないかという見方は、状況を自分でコントロールしようとしていることだと。私は、自分のことを他者にコントロールされそうになることがあるたびに、怖い思いをしたり、ショックを受けたりしていて、その状況こそ克服したいと思っており、その克服の手段として、他者を、あるいは自分の置かれた状況をコントロールできる自分を見たかったのかもしれない、と。
でも、自分で自分の生き方を決められる、あるいは他者とのつながりの中でも、いや繋がっているからこその自分の生もあると思った時、「赦すか赦さないか」という葛藤がむしろ歩みを阻むもののように思えた。
ダメな自分を、つい最近までは「他者の攻撃の対象になる」と忌み嫌っていた。ところが、そのダメな自分をフォローしてくれる人への感謝や、フォローによって知る安堵は、世界が思っていたより温かいものだと知るきっかけになった。
時に出会う、自分にとって脅威の存在や許し難い言動を見せる存在は「そういう人もいるのだ」「そちらには近づかないようにしよう」と、自分にとって大切な領域が何かを気づかせる契機となった。
わかるだろうか、こういった思いを抱けること自体も、「生き延びた」という証だということ。自己の尊厳を壊された、あるいは壊されそうになったものにとっては。赦すことも、あるいは敗北や、理不尽さへの従順につながると思っているうちは、誰かを許すわけにはいかないのだった。でないと死んでしまうから。闘い続けるしかないって感じ。
赦すか赦さないかを考えなくても生きていけるようになった時、第二の人生が始まるんじゃないかなと思う。必死で生きてきた人たちは。そういう仲間がもし他にもいるなら、心強い。けど、そういう思いをする人がいない世界の方が本当は望ましいのだが…
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