わたしたちは光の中で、光そのものとして生きる
なぜ、人を傷つけたり、いのちを損ねたりしてはいけないのか。
いのちとは、あたたかいものだからだ。
あたたかさとは 世界そのもの
世界を壊すことは 自分をも壊すこと
誰かを傷つけることは、間違いなく 自分をも傷つける
と、以前書いた。
私は、自分の光を消そうとしてしまっていたことがある。
生きることは、辛うじて続けていたけれど、
しゃべることや、笑うことが しんどくなって、表情が動かなくなってしまった。
そんな私を、笑った人がいた時、心が痛んだかどうかは、覚えていないが、相手によって接し方を変えるその人を、今後信頼することはないだろうなと思ったのは、はっきり覚えている。その人は、魅力的な人だと思っていたけれど、つまり、光を持っている人だとは思っていたけれど、はて、その光はなんだろうか。嘘だったのか。
次第に、自分が回復していった時、心から笑うことができた時、自分の心の中に光が宿っていることに気づいた。
内から放つ光、それを命の輝きということができる。
子どもは、強い光を放って、そこにいる。生命力があれば、それは内に光を持っているのだ。
子どもほどではないけれど、私にも内に光があって、それを取り戻したから、力が蘇ってきたんだなと思った。声にも張りが戻ってきた。
光は、声にも宿る。潤いのある声というものがある。声質とは違う。確かに魂が宿っている声には、潤いがある。
仮に病気をして体が弱っていても、魂が曇っていなければ、その潤いは失われたりしない。
私を笑った、その人は、好きな人には柔らかい笑顔と声で距離を詰めて、一方で、気に入らない人のことは、びっくりするほど冷たい声色と口調で相手を突き放す人だった。気分次第で、口調はころころ変わって、どう接したらいいかわからない人だった。能力は高いから、周囲から称賛されて、それが光につながっている人だと思っていた。
ある時、その人の声が 変わってしまったことに気づいた。笑い声が変わった。明らかに渇いているのだった。何かあったようだったが、それが何かは知らない。気づけば、急に老けこんでしまっていることにも気づいた。病気をしたのかと思うぐらいだったが、そうではなかった。
よく見てみれば、その人の周りから人が減っているのだった。その人を称賛していた人は、時の流れとともに、別の場所に去っていっていた。
その人の光は、もしかしたら、その人自身のものより、他者からもらったものが多かったのかもしれない。
いや、光は、誰かと、何かと繋がるからこそ、強くなるのかもしれない。
一人でいる人が光れないということではない。何かに没頭している人は、強い光を放つからだ。
でも、誰かから奪った光は長続きしない。分かち合ったり、繋がったりした時に生まれる光こそが、確かな光なのではないか。私も、再び、他者とのつながりを信じる気持ちが生じた時にこそ、声と笑顔と、つまり光を取り戻した気がする。
生きていく中で、光を奪う人に近づかないようにする意識は大切だ。
奪う人は 光の中にいない。
この人、意地悪だな、人を馬鹿にして面白がってるな、それで生きているな、という人には近づかないこと。