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分け隔てしない(1)

接する相手によって 明らかに態度を変える人に対して、自分でも不思議なくらい嫌悪感を抱いてきた。

分け隔てをする、ということは、ある人のことは大事に扱い、別のある人のことは見下したり、テキトーに扱ったりする、ということだ。エネルギーの注ぎ方を場合によって変える、ということ。

今まで、私は 「テキトーに扱われる人」の辛さや悲しみにフォーカスして、このことを考えていた。雑な扱いを受けることで悲しい思いをする人がいるのは、あるべき状況ではないということだ。

だが、その逆もまた、望ましい状況とはいえないのではないかということに思い至った。ある人にとても「かわいがられている」人がいるのだが、「 」がついているのがポイントで、その「かわいがっている」人は、実は最後まで責任を持てる人ではなくて、いざとなると相手を見捨ててしまう類の人だ。それをまず示しておいて、さて、大事にしすぎることの問題点はいくつかある。とりあえず下に三点示す。

ひとつめ。
ひいきされている人というのは、その相手に、自分のエネルギーを実はかなり提供してしまって、案外 自分の時間、自分の人生を生きていないということ。それは、自分で自分のことを決められなくなってしまうということ。

ふたつめ。
そして、ひいきしている状況というのは 周囲の人の心にも作用して「あの人には、われわれがしてあげられることはない。しっかりと誰それさん(ひいきしている側)が教えてあげているから。」と一線引いてしまうこと。つまり、ひいきされている人は、自分で考えることも減る上に 多くの人から学ぶ機会も失ってしまうのだ。

みっつめ。
その人たちがいる場の雰囲気が悪くなってしまうこと。ひいきをしすぎるということは、その一方で ぞんざいに扱われる存在が出てくる。「あの人だけ大事にされるのだ」という思いが生まれることもある。チームで、集団で何かをする、ということが機能しにくくなっていく。
なんと、ひいきされている人は、そんなに居心地のいい環境で生きることができず、ひいきしてくれる人に頼りっきりになるしかなくなるのだ。

少し書いてみただけでも、よくないひいきの仕方が、ひいきされる人の可能性を大いに奪ってしまうということがわかる。


さて、他にも弊害は多くある。
また、今回は書いていないが「ひいきされない」と思った側の思いも複雑だ。「勝手にやればいい」と ひいきしている側のことを割り切って考えられることもあれば、何かをきっかけに大きな傷を負うこともある。

複数の人間で動いていく中で、ひいきする、される、ということがあからさまな形で、誰からみてもわかる感じで展開されるのは、百害あって一利なしなのだ。

組織を壊すし、個々人の心のエネルギーも奪ってしまう。ここ最近、このようなケースをあまりに多くみてしまった。しばらく、このことを書きながら整理していこうと思っている。

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