手放すこと~離れるときはそっと、という思いやり~
手放すこと、とは 握りしめていた力を少し緩めることだと思います。
これは本当に私の個人的な感覚ですが、「捨てる」テーマの記事を読んでいて、胸が締めつけられる時がありまして。その理由を整理しました。先に断っておきますが(声を大にしてでも断っておきたいのですが)ミニマリストを否定したいのではないです。
「捨てる捨てる」と声高に言うあまり、言わない方がいいことを言ってしまうこともあるのではないか、という違和感を覚えるケースがある、という話です。
下に書いた3点には共通点があります。「一度自分が手に入れたもの」への思いやりを少しもってほしいなと感じるということ。
さて、胸が痛いと感じる3つのシチュエーション。↓↓↓
①人間関係捨てました(捨てられた、捨てたって言われた方の気持ちって、、、)
②捨てるのが楽しくて楽しくて、、、(捨てまくってるものは、かつて自分が買ったもの、、、)
③捨てた結果、こういういいものを買いました(て、また買ったのか。その、新たに買ったものは長く使うんだろうか)
①以前、Facebookで、「暮らしをシンプルにします。年賀状は親しい人にだけ出すことにしました。」と楽しそうに書いている人がいて、たまたま気づいたのです。その年、その人から私への年賀状が途絶えたことに。
そうか、私はあなたと親しいって思ってたけど、、、(._.)
②ふと目にした「捨て始めたら、どんどん捨てるものを探すようになった。」と血眼で物を捨てるイラストや言葉には 、買ったものにはもちろん、かつてそれを買った自分の気持ちももうあっさりと切り捨てている感じを受けて、本当にそれまでの自分のしたことをそんなふうに否定して、しかもそれを人に全部見せてしまっていいのかなと疑問に思ったのです。きつい言い方ですが、子どもが飽きたおもちゃに見向きもしなくなる感じと変わらない 、自分のものとの向き合い方をそんなふうに見せてしまうことに躊躇はないのか と。
③捨てまくった結果、選りすぐりの雑貨を買ったという紹介記事を見ると、雑貨好きの人にはすぐわかる逸品、あるいは流行のものが 家の中にあちこち配置されていたのです。ひとつひとつのお値段は相当のもので、全部合わせると、かなりのものになるのがわかりました。その人は 私からすると、本質的に「物が、買い物が好きな人」だと感じました。その人は、果たして、それらの新たに買ったものを使い続けるだろうか、とふっと思ったのです。
不安から買い込んで不要なものをためこんだままの生活、捨てられないものに囲まれた生活、物が散らかっていて効率の悪い生活、イライラする毎日、そういうものからの解放として 「手放す」、すなわち余計な力を緩めることができることは より自分らしい生き方に繋がると思う。
一方で「捨てたよ」って 声を大にして言うのは、「捨てたいけど捨てられない人への勇気づけ」という意味はあるかもしれないけど、「捨てられたもの」の扱い方をも他人に知らせてしまうことでもある。ああ、この人はこんなふうに物を、人を手放す(捨てる)人なんだ、と。
私は 年賀状を止めた人と その後顔を合わせた時、とても複雑な気持ちでした。そう、その人と私は、実生活でも顔を合わせる機会がある関係だったのでした。その人は、Facebookに書かなければよかったのでしょう。そっとやめるだけでよかったのです、少なくとも私はそうしてくれた方がありがたかった。
断捨離をテーマに文章を書くとなると、当然捨てたものを書かざるを得ないけど、言葉の使い方にはちょっと配慮をしてもいい時があるのでは、と思ってしまうのでした。
物はともかく「人間関係の断捨離」で「配偶者を」「友人を」捨てた対象として書くのは、思いやりに欠けると私は感じます。相手も心のある人として、生きているのですから
。その人が「ああ、自分は捨てられたのか」と思うことに無頓着なのは悲しい。
で、物にも心はある、とエネルギーは宿っていると ちょっと思っている私には 物の「捨て方」にも注意したいものだと思います。少なくとも言葉の使い方には。
ごちゃごちゃ暮らしていながらこんなことを書く自分は いろいろ執着を手放せない人間なのだなあと思います。あの、「私はあなたにとって不要かい」と感じたビミョーな感じが 嫌な感じで残ってるので、それを手放したいものだと思います。