自己責任という 押し付け
持論を展開したくて、自分の定義だけを書きたくて、自己責任について書いてみる。この文章を書くこともまた、自己責任を意識した上で書くもの、かどうかは不明。
自分自身は、一応自己責任で生きているつもりだ。普段のいろいろな決断を、自分のものとして引き受けている、と思っている。もちろん、そう思えないときも ある。
最近ではなく、ずいぶん前の 恥ずかしいというか、悲しい経験を時々思い出す。自分に対して好意的な態度だった人に、自分もそれ相応な態度で応えたら、相手に「振られた」という経験。あなたが、勝手に私に期待しすぎたのだ、というようなことを言われたか、そうじゃなかったか。「え、先に言い寄ってきたのは あなたでしょう」と思いつつも、自分が間違っているような、自分が全ての責任を負わねばならない、という謎の事態を前に、悲しい気持ちになったことを思い出す。
人の言動をどう受け取るか、というのは、受け取る側の問題だ。つまり、自己責任、、、というのか。
で、私は、自分の生き方については、自己責任ということを意識しているけれど、他者に対して自己責任を自覚させる姿勢は、ちょっと違うような気がしている。
先ほどの、「お前が勝手に期待したんだろ」は、相手が、私の過剰な期待を私ひとりの責任とみなしているのだけれど、その始まりは、あなたの振る舞いであるのに、そこは無視するのか、っていう。
社会の中は、自己責任で溢れてる。確かに、説明書や契約書をきちんと読まずに被った事態を、他者のせいにするのはおかしい。ただ、あえて、説明書を読ませずに行動に走らせる雰囲気が作られていることもなくはなくて、この自己責任とやらは、面倒くさいものだ。
自己責任、とは 文字通り、その行為の主体だけが口にできるものではないかと考える。自己責任だろ、って他者が言うのは、「お前が悪いんじゃん」って突き放してるだけ。そして、「自分が悪い」と責めるのと、自己責任も違う。自分が悪い、と思いつめるのは、自責の念。
詰まるところ、他の人が「それは自己責任だね」って言うのって、聞きたくないだけなのだな、私は。「やるのはいいけど自己責任でね」って言うのも、なんか違うんだ。不意義なことに「他の人は責任とってくれないよ」なら ありかなあ、って思う。この違いはなんだろう。他の人のせいにしちゃダメよ、とか。
冒頭の悲しいエピソードに戻ると、これがわかる。私を「振った」人は、この「誰かのせいにしてはダメよ」は言えないのだ、構造的に。だって、私が心を動かすきっかけを直接的に投げかけといて、それは言えないもん。あなたが関わってきたんでしょうが。そもそもあなたが私の存在を「振りたい」対象として感じる発端は、あなたの行為。つまり、相手は、自分の自己責任を棚に上げて、自己正当化をしていたのだ。
自己正当化と、自己責任の押し付けが同時に存在している状況においては、「自己責任」という言葉を使えないのかもしれないね。
「自己責任」とは、自己の振る舞いに覚悟を持てているかどうか、ということなのだろう。
また、事態に直接関係ない第三者が、苦しんでいる人に押し付ける「自己責任だね」も、その人を追い詰めるだけのものだ。
自己責任って 誰もが口にしていいものではないんだろう。もう少し、考えてみたいけれど、「自己責任で」とりあえず、この状態で 今日の文章は完成?ということにしておこうか。
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