私の空間は、私だけのものであり、時に分け合うものでもある。でも、誰かに差し出すものではない。
(★公開した後で、少し追記した部分があります)
以前も書いたが、自己責任というのは、他者が押し付けるものではないと思っている。選択や行動のミスを、他者が「自己責任だから」というのは、ただその人を「ひとりにしてしまう」だけのものだということだ。
(この部分は後で追記しました。↓)
自分の領域を守る、ということは「自己責任」という言葉による無駄な自責を防ぐことにつながるのではないかと思い始め、これを書きました。
あちこちに潜んでいる自己責任
「自己責任」という言葉が「奪う」人の都合のよいように使われるケースを目にすることがあったし、事実私もそういう文脈で、この言葉を押し付けられたことがある。
「奪う」ことは、人の感覚を麻痺させる。「そっちがしたくてしたことでしょう」ということを平気で言うことができるようになったら、もう麻痺しているかもしれないな。
これは、個人の問題ではないのだ。「マッチポンプ」などという言葉で、しばしば社会の中で起きている搾取の仕組みにだって、この「奪う」ことと「自己責任」のセットはたくさん見られるのだ。詳しくは書かない。
今日 書きたいのは、一応個人的なことなので。
私が普段思っていること考えていることは、周りの人に言えないことが多い→「自己責任」の問題
これまで私は思っていることがあっても、誰にもわかってもらえない、自分の内に抱えていくしかないものだと思っていた。
普段の生活の中で、自分の考えを言っても「へえ。まじめだね」「それって結局理想だね」「現実的じゃないね」って言われて終わるのがオチだったりした。
そして、ここでもそんなには書いていないが、私が思っていることは、世の中のメジャーな流れとはちょっとずれていて、あんまり人には言えないことなのだ。そう、それこそうっかり口にすると「自己責任」の問題が重く私にのしかかってしまうことになるのだ。
育児でも、仕事のしかたでも、人との接し方でも、あるいは心身との向き合い方でも、人と違う方に進みたがる。わかりやすく言えば、テレビを見ていると、しんどくなるので見ることができない、くらい、ことごとくずれている感じ。
安心感が集中力を生む
私は、最近 仕事をしながら、家事をしながら、これまでの気づき、これまで胸にしまっておいたことを文字にすることを続けている。
このことで、私は安心して、これまでに増して仕事に集中することができるようになってきた。
文章に書いて、誰かとシェアすることや、あるいは誰かの書いた文章を読んで自分の考えを深め、新たに読みたい本が生まれたりすることで、不思議な安心感を覚えたのだ。自分の思いや考えをアウトプットしていいのだという安心。
自分の思っていることを言葉にすることができるようになったことで、仕事のときは仕事のことだけ考えればいいという状況を強化することができるようになった。
自分だけの空間が生まれる、そこに決して招き入れない人、というのを自覚しておく
自分が周りの人と違っていても、「ここではそれでいいんだ」「私には私の空間がきちんとある」という確信を抱いて、そこに在ることができるようになった。
そう、常にどんなときにも 「自分の空間がある」という気持ちを持つことができるようになったともいえるかもしれない。
自分の中で、自分の考えに対する信頼と、自分の空間を自分がもっているという安心感がめばえたことで、もともと繊細で周囲の音や気配をことごとく感じ取ってしまう「繊細さん」的な部分も少し安心したように思う。もちろん、雑音を遮断するなどの自衛は欠かせないときがあるが、大勢いる空間で過ごすことが、以前よりは楽になってきた。
こういうのを、自分と他者との間の境界線をもつことができた、というふうに言うことがあると思う。
そして、自分に言い聞かせていることがある。そういう、心地よい空間に、ぐいぐいと入ってくる人をうっかり許してしまわないということだ。ここが甘くなると、自分のしたくないことをしたり、言いたくもないことを言ったり、あるいは相手のペースにのみこまれて、思いもかけない展開に巻き込まれて、結果的に「自己責任」に押しつぶされそうになることがあるからだ。
ぐいぐい入ってくる人が、一見人がよさそうで、自分に対して好意的に見えたとしても、言葉は悪いが「警戒し続けていよう」と思う。そして、最初に感じた「違和感」は、当たることが多いのだ。
自分の空間を守ったうえで、今後考えたいこと
こうして、余計な自己責任を負わないように、心がけたうえで、あえて言いたい。
むやみに「自己責任」を追及する世の中を終わらせていきたい、と。言い方を変えると、自衛ができない弱者が「自己責任」を負わされる世の中を終わりにしたいということ。
「よい人が搾取されて、『あなたが選んだ行動でしょう』と言われる」そんなケースがあまりに増えていることを止めないと、と切実に思うようになったのだ。私自身、自分を「よい人」とは思っていないけれど、以前長い間、立ち上がれなかったのは、ある人の「もらいすぎたわ。じゃあね」っていう軽率なふるまいに打撃を受けたからだ。「あなたがそうしたくてしただけで、私は頼んでいない」と。
そういう搾取と自己責任論のセットが機能しないような、人と人とのつながり方、どこかであったはず。
※力を持っている人の行動についてはまた別の話なので、置いておくことにしよう。このことは、また別の機会に。