祈り
ここ2年ほど、忙しさとかで 自分の心がちょっと麻痺していた気がする。去年の夏とかは人間が嫌いになりそうだった。表情は険しくなるし、これはヤバいぞと思った。
小5の娘と買い物に行っていたとき、ふとしたことから「なんか年取った気がするわー」と言ったら、「そうは思わないけど、でも変わったよな」「ふわっとした感じやで、最近」と返された。子どもって鋭い、というか、大人、特に親のことをよく見てるなと思った。ずっとカリカリしてたもんなあ、反省。
私は、自分の親との関係が小さい頃から とてもハードで、生きるのが大変だったときがある。その影響だか、後遺症なのかなんなのかわからないけど、今思えば、記憶障害みたいな状態が発現していたこともある。その場にいた誰もが知っている、分かっていないなんてあり得ないようなことを自分だけ知らないとか、友人と一緒に旅行に行った時のことをほとんど覚えていない、とか。ある時からは、人の話の流れが全くとらえられなくなった。元々記憶力がいい方だと思っていたので、そういう状況を受け入れられなかった。回復し始めてから「やはり、一時期の私は記憶ができなくなっていたな」と確信するに至った。
私が回復したのは、夫の鷹揚さと、私を嫁というより我が子のように扱ってくれた義両親のおかげだと思っている。長い間、自分のことしか考えられず、被害者としての生き方以外見えなかったのに、ある時から「自分のためばかりでなく、誰かのために自分の力を使えるようになりたい」という思いが「祈り」として生まれてきた。そういう思いが失われそうなとき、私の表情は 険しさを呼び戻しそうになる。
夫や義両親の笑顔が、憎しみに囚われそうな私にとっては光だった。人と関わるときにそういう接し方があるのか、とか、失敗しても「大事に至らずよかった。次は気をつけよう」っていう考え方があるのか、といったことを一つ一つ見せてくれた。暗い所にいる人を見つけたとき、進む方向を照らしてあげられる人は尊い。暗い場所を見つけた人にできるのは、自分の持つ灯りで そこをそっと照らすことだろう。
暗い場所が、あるいは底無し沼のような重い闇が訪れそうな場所があるときは 一人でそこに入っていかずに、大勢で一人一人の灯りを携えて集まろう。忍び寄る闇の隅々までも照らしてしまえるくらいの明るさを そこに集めよう。闇が消えるか、あるいは闇がどこに逃げ出すか、それは神のみぞ知る。
誰かのきれいな心を 悲しみの底に沈めようとする存在があるときも、私たちにできるのは その存在を潰すことではなく、そこを眩い光で満たすことだ。
多くの人の穏やかな言葉、日々の地道な営みを織り成して。静かな呼吸で そこに在ろうとする。
そのような いとなみを 私たちは 時に「祈り」と呼ぶ。