本音に蓋
本当はダラダラするのが一番好きで、そんなに一生懸命働き続けたくない
という本音からずっと目を背けていた。家のことをしたり、本を読んだり、雑誌のスクラップをしたり。生産性がない!と思われる過ごし方が自分には欠かせないと 改めて気づいた。そういえば占いをしても、この点は必ず言われたかも。のんびり自分のペースで趣味を楽しむ時間が大切、と。それでこそ、人としてのバランスを保つことができますよ、と。これを言われたときは「現実的には難しい。忙し過ぎる」と聞き流していた。
実際の自分は、働き出したらノンストップ。だから、夕方にはぐったり。。。それでも持ち帰り仕事が発生。休日も仕事のことを考えたり、仕事したり。だから、休んだ気がしないまま、出勤。
こういう時、人の時間やエネルギーを無神経に奪うような、気ままな他人が登場しがちで、さらに苛々。他人の仕事の手を止めてまで、部屋中に響く甲高い声でどうでもいい話をしないでほしい。
で、ああもう少し静かな環境で仕事をしたい。。。
こういう人が目の前に現れる意味は何なのだ。。。本当は自分もこの人のように、もっと気ままに振る舞いたいのかもしれない。あるいは私もその人と同じような思いを抱えていて、その人が代わりに言ってくれてるのかもしれない。。。とモヤモヤ。。。ぐるぐる。。。考えていた。ああ、なぜ私は毎日苛々するんだろう。。。
簡単なことだ。自分がダラダラ気ままに過ごすことに自分が許可を出していなかったのだ。
今、私の目の前では、宿題が無駄に多い学校に通う娘が、読書に集中している。手にしている端末がiPad ではなく、Kindleだったのだ。宿題を先しなさいって言われても、どちらかというと読書を優先させる娘。。。宿題をほんとに優先させると、自分の時間がなくなる、とでも言いたげに大人の助言をスルーする娘。
この社会では、人の時間を上手に提供させた者が「勝つ」んじゃないかなあと、よく思う。一緒に使うというよりは、奪うような感じ。シェアするという感じがない。いろんなタスクの責務は個人に帰するものになっていて、大勢の協力とか分け合う雰囲気はおまけみたいなものになっている。あるいは士気を鼓舞するためのスローガンとしてだけ、他者との協働が賛美されている。
私は、一人ひとりの顔が見えない社会のために働きたいわけではないのだと思う。あり得ないほどの経費削減と、個々人のパフォーマンスアップを無慈悲に日々要求してくる、実体の見えないものの要求に応えるために日々働きたいのではないと思う。こういう要求こそが知らず知らずのうちに、私の「ぼんやり時間」を奪っていくのだ。「ぼんやり」は社会に役立つようなものを何も生産しないかもしれないけど、私の生の一部だというのに。それを削って働けという要求を、手を変え品を変え送り続けてくる。
自分の「だらだら」や「ぼんやり」は無ではなく、生そのものなのだ。無用の用。
蓋をして見ないようにしていた、私の本音が少しずつ見えてきたような気がする。