「相似形」のはずでは・・・
私が子どものころに通っていた小学校では、担任が教室内に何枚かの児童名簿を貼り、
「挙手をして発言した回数」
「忘れ物をした回数」
などをチェックすることが一般的だった。
「発言回数」の名簿のほうは、挙手して1回発言するごとに「正」の字が1画ずつ書き加えられ、「忘れ物」のほうは1回につき「✕印」が1つずつ増えるというシステムだったと記憶している。
何日か経って、「正」の字が名簿の枠いっぱいに並んだ子には「賞状」が与えられ、「✕」で埋まった場合には「罰掃除」が科されるなど、賞罰とも結びついていたように思う。
こうした実践は、私が通っていた小学校だけではなく、全国各地で行われていたようだ。
・・・さすがに今の小学校では、行き過ぎた「競争原理」や「懲罰主義」で子どもを動かそうとすることは好ましくないと見なされ、実践も姿を消している(と思う)。
このところ、
「『子どもの学び』と『大人の学び』は相似形だ。子どもたちの学びを『主体的・対話的』にするのならば、大人の学びである教職員の研修もそうでなければならない」
「学校では、子どもたちのウェルビーイングとともに、そこで働く教職員のウェルビーイングも希求していく必要がある」
という言説をよく聞く。
・・・大切にするべきことに「大人だから」「子どもだから」という違いはないはずだ。たしかに、そのとおりだと思う。
逆に、大人ができていないことを子どもに要求するというのであれば、それは都合がよすぎる。やはり、「相似形」であるべきなのだ。
文部科学省は、教員の残業時間の削減に向けて、各学校の校長の人事評価に「働き方改革」に関する観点を導入する予定らしい。また、教員の在校時間を自治体ごとに公表することも目指しているという。
・校長の人事評価に「働き方改革」に関する観点を導入すること
・教員の在校時間を自治体ごとに公表すること
・・・こうした施策の「相似形」になるのは、かつての教室に貼られていた「挙手をして発言した回数」や「忘れ物をした回数」などのチェック表だろう。