同調圧力vs.承認欲求…子ども映画で考える1-2個性
自分が小学生だったころの教室の光景を、ちょっと想い起こしてみてください。
そこには、背の高い子も低い子もいました。
痩せた子も太った子もいました。
色白の子も色黒の子もいました。
一重まぶたの子も二重の子もいました。
勉強が得意な子も不得手な子もいました。
走るのが速い子も遅い子もいました。
活発な子も内気な子もいました。
そして、男の子も女の子もいました。
人の個性を表わす指標は、ここにざっと挙げてみたように、体型や容姿といった外見的なものから、能力や気質といった内面的なものまで、じつにさまざまです。そしてこうしたさまざまな「こちら」と「あちら」は、私が「私」であることにまだじゅうぶん慣れていない子どもたちを、ときに容赦なく苦しめる原因ともなり得ます。
こんなにも背が低いのは、なぜ?
目がぱっちりとしてないのは、なぜ?
いくらがんばっても駆けっこが遅いのは、なぜ?
みんなとうまくおしゃべりできないのは、なぜ?
前節の映画『にんじん』でも眺めたように、こうした人それぞれの個性は即「あだ名」へと結びついてしまいます。ただしここ最近は学校においても、「あだ名」で呼ぶことを禁じたり、あるいは運動会で順位をつけなかったり学芸会で全員を主役にしたりと、「こちら」と「あちら」で子どもたちが苦しまぬよう、細やかな配慮がいろいろとなされてはいるようです。
個性の代表格ともいうべき「性差」についても、それは同じでありましょう。出席番号は男女混合のほか、全員「さん」づけで呼ぶようにするなど、私が小学生だった1980年代の初頭と較べれば、格段の進展が見られます。もっとも、世界経済フォーラム発表の男女間の不均衡を示す「ジェンダーギャップ指数」では、2024年版でも日本は146カ国中118位と、相変わらず低迷を続けているようですが。
とにもかくにも、今日も教室では先生方が、「男の子のくせに」とか「女の子なんだから」とか、性差による固定観念、つまりは「ジェンダーバイアス」を助長するような子どもたちの振舞に、厳しく目を光らせていることでしょう。
しかし同時に、先生方の同じその目が、髪の長さや制服の丈など規則の遵守という側面に、よりいっそう厳しく光りがちだということには、じゅうぶん留意しておく必要があるように思うのです。
つまり学校において子どもたちは、個性の大切さを日々説かれながらも、個性的であることを禁じられている状況にあるわけです。このように、許可と禁止という二つの矛盾した命令を同時に下すことは、相手の心にきわめて深刻なダメージを与えかねず、その危険をグレゴリー・ベイトソンという学者は「ダブルバインド=二重拘束」と呼び、かねてより警鐘を鳴らしています。
こうした「ダブルバインド=二重拘束」的な状況は、もちろん学校にかぎった話ではありません。たとえば昨今のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の隆盛で、子どもたちはまるで誰かに急きたてられてでもいるかのように、人とは違う自分ならではの日常を、絶えず発信し続けています。できるだけたくさんの「いいね」を得ることによってどうにか、ふつふつと沸き起こる承認欲求を満たすかのごとく。
しかし同時に子どもたちは、発信内容が人と違いすぎないよう、細心の注意を払っていかなければなりません。同調圧力がことのほか強い島国日本の、しかもごくごくちいさなコミュニティで、ひとたび周囲から浮いてしまうことがどれほど重大なことであるか、それがすでに骨身に染みているから。
さて「個性」をテーマに掲げた今回は、このような現況を踏まえつつ、「性差」や「ジェンダー」に主眼を据えて、「自分らしさ」をとことん貫こうとした子どもたちの姿を追っていきたいと思います。
☆ウェディングドレスを夢見る少年
最初に取りあげるのは1998年製作の映画『ぼくのバラ色の人生』。タイトルはもちろんフランスを代表するシャンソン歌手エディット・ピアフの代表曲に由来します。
映画の主人公は「リュドヴィック」という7歳の男の子で、通称は「リュド」。男の子だけど、ひらひらのスカートをはいたり、きらきらのイヤリングをつけたりするのが大好き。着せ替え人形がいちばんの宝もので、いつの日か誰かのお嫁さんになって素敵なウェディングドレスを着るのが夢。
「リュド」みたいな男の子が実際に身近にいたら、あなたはどのように接するでしょう? 男の子なんだから男らしくするべきと、既存の枠に無理矢理押し込めようとするか、はたまた自分らしさが何よりも大事と、ありのままであろうとする姿を親身になって応援するか。
映画では前者の態度が圧倒的に優勢です。クラスの仲間からも、ご近所さんたちからも、挙句の果てには両親からも、「リュド」は馬鹿にされ気味悪がられ遠ざけられていってしまいます。
ぼくには神様が間違った染色体をお与えになったのだと妙な納得をして、それでもなお我が道を進もうとする「リュド」でしたが、そうすればするほどに、周囲の反応はよりいっそうエスカレートしてしまうもの。精神科に通わされ、自慢のおかっぱ頭を無残に刈られ、最終的には転校と引っ越しをも余儀なくされて…。
引越し先でも相変わらず「男らしさ」を強要され続ける「リュド」でしたが、最後に映画は、ちょっとした奇跡を用意します。それは、この女の子っぽい男の子に、やたら男の子っぽい女の子を出会わせるという、じつにささやかなものですが、ときにこうしたささやかな奇跡こそが、一生の救いとなることもあるのだと、この映画は観る者に深く実感させてくれることでしょう。
ちなみに、「男の子っぽい女の子」を意味する英語を、そのままタイトルに冠したフランス映画の『トムボーイ』では、家族で移り住んだ地で男の子になりすますことを決意した10歳の女の子の、美しくも切ないひと夏が丁寧に描かれており、こちらもまた必見です。
☆バレエに心底魅せられた少年たち
1980年代のイギリスを舞台にした『リトルダンサー』も、「男らしさ」や「女らしさ」という問題に真正面から向き合った名作です。
炭坑で働くひとり親の父からは絶えず強くあることを求められ、しぶしぶボクシング教室に通っていた11歳の「ビリー」がある日、どうしようもないくらいバレエの魅力に取りつかれ…。紆余曲折を経ながらも、一流のダンサーとして大成するまでを堂々と描き切ったこのサクセス・ストーリーは、繰り返し舞台化されるなど日本での人気も周知のとおりです。
同じくバレエということでは、ベルギーに暮らすトランスジェンダーの主人公が、プロのバレリーナを目指し、それこそ血の滲むような努力を重ねる日々を追った『GIRL/ガール』も忘れるわけにはいきません。15歳の「ララ」が最後、苦悩の根源ともいうべき男らしさの象徴を、自らの手で削ぎ落とす場面の目撃者となるには、相当の覚悟を要することを念のため申し添えておきましょう。
ここでぜひ気をつけておきたいのは、「らしさ」という言葉のなかには、男とは「こうあるべき」女とは「こうあるべき」といった具合に、それを口にする人の個人的な正義や理想が、確実に投影されているということです。
それだけにとどまらず、かりに相手が「らしさ」の範疇を逸脱しようものなら、つまりは自分の正義や理想を満たさないことが判り次第その人は、即座に相手を「変わり者」呼ばわりして、嘲笑や差別や無視の対象と決めつけることでしょう。
さらにもっと怖いのは、自身の固定観念に収まり切らないものは即座に排除するという防御的な心のメカニズムはやがて、こと性差にかかわらず、人種・宗教・職業・学歴・貧富など、あらゆる「こちら」と「あちら」に直面した際にも、無自覚的に発動してしまうということです。
本節の冒頭でも述べたように、子どもは子どもだったころ、私が「私」であることや「こちら」と「あちら」の峻別に、ぜんぜん慣れてはいませんでした。でも時が流れ、私が「私」であることにも「こちら」と「あちら」の峻別にも、もはや何も感じなくなってしまったいま、「こうあるべき」とか「変わり者」とかいった言葉が日々、あなたの心で渦巻いてはいませんか?
もしそうであるならば、心の奥底に潜む個人的な正義や理想がどのように確立されるに至ったか、一度立ち止まって振り返ってみるのも有意義かもしれません。
☆幼きトランスジェンダーの男の子
最後に取りあげるのはスペイン映画の『ミツバチと私』。スペインでミツバチとなるとどうしても、ビクトル・エリセ監督の不朽の名作『ミツバチのささやき』が想い起こされてしまいますが、これについては第2章で詳しく述べる予定です。
さて、主人公は「アイトール」という名の8歳の男の子。ただし自分が男の子であることも、「アイトール」という男の子っぽい名前も、「坊や」を意味する「ココ」という愛称も、ぜんぶ好きにはなれません。幼いながらも「アイトール」は、自らの性自認に揺れ動き、得も言われぬ居心地の悪さを感じながら、日々をやり過ごしているのです。
なぜ自分は女の子として生まれてこなかったの? そんな思いが滓のように溜り続け、ますます孤独を深めていく「アイトール」でしたが、夏休みに家族で自然豊かなバスク地方を訪れたのを機に、その心には小さな、けれど決定的な変化が訪れます。
養蜂場を営む大らかな親戚一家のもとで、ミツバチの神秘的な生態や、目を抉られても自らの信仰を貫きとおした守護聖人ルチアの存在を学んだ「アイトール」は、他人が決めた「らしさ」ではなく、自分が信じる「らしさ」に付き従って生きていくことを最後決意するのです。
その決意を貫くためには、つまり男の子ではなく女の子として生きていくためには、この世に生まれ落ちた途端に一方的に名付けられた「アイトール」という名前を、自らの手で葬り去らなければなりません。そして信仰を貫きとおした守護聖人にちなんだ「ルシア」という名を自らの手で付け直し、あらたに生まれ変わる必要が。
主人公はこのさきも、さまざまな偏見や差別の壁に直面することでしょう。ただ「ルシア」にはもう判っています。「自分らしさ」の花を、何処かに無理矢理咲かせようとする必要などないことが。この世でいちばん美しい花の蕾は、自らの心の内にすでに芽吹いているのだということが。
だからきっと、だいじょうぶ。
『ぼくのバラ色の人生』 1998年 フランス・ベルギー・イギリス アラン・ベルリネール監督
『トムボーイ』 2011年 フランス セリーヌ・シアマ監督
『リトルダンサー』 2000年 イギリス スティーブン・ダルドリー監督
『GIRL/ガール』 2018年 ベルギー ルーカス・ドン監督
『ミツバチと私』 2023年 スペイン エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督