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『150年』、目眩く「分からなさ」のおもしろさ

『150年』というアート展に行った。

場所は東池袋。再開発予定の建物6つの壁を壊してところどころ繋ぎできあがった、巨大迷宮のような会場。そこに複数人のアーティストが各々の「150年」を作品にして展示する。

とんでもなかった。まさに目眩く体験だった。2025年は始まったばかりだけど、たぶん、今年一になるだろう。

何に自分の心が動いたのか、ちょっと整理してみたい。

自分が感じたことを整理しているうちに、この展示全体を漂っていたのは、「現実/非現実」「作為/無作為」「ある空間/別の空間」といった色々な境界が「分からない」ことの不気味さ(でもあり、おもしろさでもある)なのかもしれない、と思った。

人は、「分からない」ことを恐れるという。
それと似たような感じで、①会場設計、②作為/無作為、という少なくとも二つの点から、(現代アート作品の意味がうまくつかみ取れない、というような、消極的な分からなさではなく、現実に浸食してくるような、頭が現実と非現実を区別できなくなるような)積極的な「分からなさ」が生まれていたんじゃないかと思った。

①会場設計

まず、特殊な会場の話。会場はこの前まで、人が住んでいた場所である。どこかのホワイトキューブに生活の跡を再現しようとしても、決してたどり着けない絶対的なリアリティが会場全体に漂っていた。

昨日まで人が生活していた気配がありありと広がる一方で、「あれ、家ってこんな大きさだったっけ、、?」「こんな変なものとかもあるもんだっけ、、?」みたいなうっすらとした違和感や、不気味さ、不安感がずっと張り付いている(これは②とも繋がる)。

それだけでもなんとなく「分からない」のに、壁をぶち抜いて巨大迷宮が完成してしまっている。最初は配布された図面などは見ないで回り切ってやろうと思ったが、すぐにそれが無理だということを悟った。そして図面を見ながらでも何回も同じところに戻ってきたりした。
正真正銘、「分からなく」なっていた。
(できれば図面を見ずに、めちゃくちゃ長い時間をかけて見れたらなとも思った。その場合全部見切れてなかったとしても後悔なし。)

(普通に危なくない?的な部分も含めて、不安感があおられていた部分もあるかも)

あと、大きな部屋が仕切られているのではなく、小さな部屋がたくさん繋がっていることも重要なのかもしれないと思った。ある場所から別の場所に、移動して、空間が変わっているという実感。

②作為/無作為

そして、そんな会場を使っているからこそ、もっと「分からなく」なることが、「作為/無作為」の境界である。

「この標識、植物、ぬいぐるみ、は会場設計の段階で意図的に付け足されたものなのか、それとももとからあったものが残されているのか、、、」そんなものが、無数に散らばっている。
(展示をしている時点で、これはおもしろい残置物だから残しておこう、みたいな意図を含んだ判断があっただろうことは重々承知だが、ここではいったん作為的に追加したものではない、という意味。というかむしろ、そういったことに想像を巡らせてしまうことも含めてより重層的な「分からなさ」が出ているような気もしてきた。思考も迷宮に迷い込んできている。)

何が「わざと」で、なにがそうじゃないのか。それが「分からなく」なるとともに、小さな違和感に普段より敏感になっている自分にすぐに気づいた。何もかも変な気がしてきた、、、

言ってみれば、「アート展来たけど、このゴミってアートなんだろうか、、、分からん」みたいなことが無数に起こっている状態である。

以上のようにいったん書き出してみた。めちゃおもしろかった。いや、「おもしろかった」とか「こわかった」とか、ひとつの言葉で言い切りたくないような、そういう展示だったと思う。

けれど一言で言うなら、「目眩く」はかなりしっくりくるかも。色々分からなくなってきて、くらむような体験。

あと、コンセプトが『「前」とか「後」とかではない、時間量としての150年』、と明記していたのもすごくよかった気がする。コンテクストがめちゃくちゃある場所なんだけど、それをなぞって積み重ねていくような感じじゃなくて、つかみどころのない、何にもべたっとくっついていないような、そういうふうだった。

結構ごちゃごちゃした感想になってしまったけど、とりあえず、以上。
しばらく頭の中でぐるぐる考えそう。

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