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【自己探求】なぜ人は先入観でジャッジしてしまうのか?
はじめに
この文章は、私の思考を日記に残すように、ノートに綴るものです。考え方を押し付けたり、広めたいものではありません。これを読んだからといって、頭がよくなるとか、題名にあるような状態になれるとか、特別な事が起きることはありません。ですが、もしこの文章が気になった時は、何かの気づきを得られるかもしれません。気になった部分をあなた自身の自己探求するきっかけにしてもらえたら嬉しいです。
以前より【自分ルーツ】というシリーズを書いていましたがその続きとも言えそうです。タイトルを【自己探求】と変えて、より深く掘り下げてみたいと思います。
経緯
私がこの文章をnoteに書こうと思った経緯をまずは書きます。
◯今流行りの【売る文章】への反骨心。
◯この文章を読んだ人が『気づく』きっかけになることがあるかもしれない。
◯読み返しできるところへ残しておきたいと考えたこと。
◯noteがスマホで書けてお手軽なこと。
◯自分の思考の整理
というわけで、特に強い意志があって書くことではないとご理解下さい😌
本題 『なぜ人は先入観でジャッジしてしまうのか?』
私はプロフィールにも書いてあるとおり、見えない世界の話や精神的な世界の話が好きです。特に『この世界は鏡でできている』『この世界は自分が創っている』という考え方に納得をしています。
そして、自分がこの人生で、『探求すること』が目的であり、『経験すること』でその理解を増すと考えています。苦しみや悲しみ、楽しみ、喜び、この感情の全ては行動や経験があるからこそ、あるものであり、それがなくなれば、『人間』とは言えないのではないか?と考えています。
なので、私は人間臭く、人間らしく、人間としてあるがままに。それが『私である』と考えています。『高次元と繋がって悟りを開きたい』や『神と話ができなければいけない』などは考えていません。誰から学んだわけでもなく、色んな人の本や考え方を自分の中に吸収して、この考えに至りました。ある意味、たくさんの方から学んだとも言えます。
時に、先日引っかかる内容のブログを見ました。そこには、お得意様であろうであった人を批判する内容と『自我』とはなにか、『自我をなくすにはこうだ』さらには『内観は必要ない』と書かれてありました。このブログを書いた方を以前より面白い思考をする方だと思ってフォローしています。でもたまに上記のように、人を批判したり、こうでなければならないと強い口調になることがあり、たびたび引っかかるなぁと考えていました。この『引っかかる』ということは私に自己探求をするタイミングだと(世界は鏡なので)思い、考えを巡らせてみることにしました。特に『内観は必要ない』という言葉はかなりの引っかかりワードです。
なぜなら、私はカードリーディングこそ、内観に使うと良いものだと考えているからです。
では私はなぜ、引っかかるのか?
文章【内観は必要ない】と私【内観は必要だ】
この状態は鏡です。表裏一体ですね。
あるとないです。ある、と思っていたことを必要ないと言われたので自分を否定されたような気がして、カチン(引っかかる)ときたのです。
この考え方は、いつも参考にしているAzusa.Kさんがおしゃべるチャンネルで丁寧にお話してくれています。とてもわかりやすいので貼っておきます。前にこんな話をどこかで聞いたなぁと感じて、私自身もこの思考をノートに残すにあたりもう一度、聞きました。
Azusa.kさんの動画の例えだと、レストランで嫌いな野菜が料理として運ばれてきて、私は嫌いなのにこんなものを出してきてどうゆうつもりだ!!とシェフに怒るようなものです。とありました。
そう、、【内観は必要ない】というはただの文章です。ただの事象です。そこに私自身を否定する旨は書かれていません。
これと同じ現象がたまたま良いタイミングでThreadsの投稿に流れてきました。
【◯◯のCMはエロスを感じさせていて、わざとらしくて気持ち悪い】的なやつでした。
おおお!?これは前述と同じじゃん!?と私は張り切って元動画を見に行きました。元動画を見た限り、私は全然、そんなふうに見えなかったので、この思考を知るための実験だと思って自身のThreadsに『全然そんなことないじゃん(省略)』的な内容を投稿します。
するとさっそく、[このCMは気持ち悪い]と考えている方からコメントがつきました。なので、「どうしてそう感じるのでしょう?」と返してみたのです。するとその方は「アニメの作画の品質が雑なせいだ」とか「CMの予算がどうだ」と返答がきました。
論点が思いっきりズレています。もしかしたら、こーゆーところがこのCMの悪いところだという誰かの投稿を読んで自分もそうだと思っていると錯覚している状態なのではないか?と考えました。
CMを見て、気持ち悪く思った人もそうでない人もいる。このCMで議論されていることは、レストランの料理で嫌いなものが出て怒る人と、私が内観を必要ないという文章を見てカチンときたのも同じ現象です。
自分の中にもっている先入観「ネガティブとポジティブ」でジャッジしているからなのだと。
なので、「議論がズレていませんか?(中略)たしかに耳をかき上げるシーンは色気を感じる人もいるかもしれませんが、私は食べるための所作ぐらいにしか感じませんでしたね」と返しました。
そもそもアニメの作画の品質と性的なものは関係ないのです。性的なものを感じるのなら、演出やシナリオ、言葉や動作が気に入らないとなるべきです。
(Threadsでちらっとみたのは、頬を赤らめながら食べているから、目がうるうるしているから、ドラマを見て泣いているというシナリオだけれど、そんな時にうどんを食べるのか?わざとらしいなど色んな意見がありました。もちろん、この考えの方たちは以前にそういったものに嫌な目にあった過去があったり、嫌悪を覚えたり、そもそもその表現が嫌いだったりするのです。これは過去の感情を引きずっていると言えます。感情の引きずりについては後ほど)
私はそもそも、他人が汗水流して作ったもの(適当な意志で作ったなら別ですが…)を批判することは好きではありません。自分が作れないものなら尚更です。そこにはリスペクトがなくてはいけないと考えています。
これに対して返ってきたコメントは、「まぁ世間の感覚が麻痺しているのかもしれませんね、(中略)陰湿な感じがしました…」とやはりその方が映像のどこに性的なイメージを持ったのか?を具体的には教えてくれませんでした。
私が「印象操作をしている人もいるので先入観なく見るとこも大切そうですね」と返したきり、返ってこなくなりました。図星だったのか、このやり取りにもう意味はないと考えたのか、真意はわかりません。私は、そのCMの良し悪しを議論したいわけではないのです。『私には性的にみえないよ』とつぶやいただけです。具体的にどこが性的に感じたのかを伝えられないということは、この方は本心で感じていないけど、みんなが言ってるから、自分の好きなインフルエンサーが言ってるから、自分もそうだと感じているという認識なのかもしれません。反対の意見の人は、みんな悪だと。
先入観が強いと、本来は単なる情報なのに、あたかもそれが『正しい』『正義』『真実』のように人間は錯覚してしまうのです。
そもそも、内容がどんなものであれ、同意のコメント(同調)をするのはわかるとして、批判のコメントをわざわざしてくる方は日頃から先入観ジャッジにやたら反発する方です。鏡に向かって、常に怒っているのです。常に自分の気持ちを押し込めている方に多いように思います。言いたいことがあるけど、言えない。でも見えない相手なら攻撃するレベルで言える。そんな感じでしょうか。
では、人間には誰しも先入観ジャッジがあることを念頭に、ブログで気になった他の部分を探っていきます。
◯『自我』とはなにか、『自我をなくすにはこうだ』
この方は理論的に解釈するのが好きなので、よく持論を書いています。本来の魂(自分の本質)へたどり着くには『自我』をなくさねばならないと語っています。
ウィキで『自我』を調べてみました。
じが【自我】
自己。自分。
①哲学
天地一切のものに対する自分。エゴ。
②心理
自分自身に対する、各個人の意識・観念。
人間は、成長するにあたってこの『自我』が芽生え、社会の中で色んな考えや教え、まわりの環境、まわりの大人からこの自我を育てていくと私は考えています。
先ほどの先入観ジャッジもそのうちの1つです。
人間として、『自分とはこうだ』『私はこうだ』『自分とは何だろう?』と自問自答しながら成長していくものではないでしょうか。
私はこの自我の究極形態は『私は私である』『私は愛おしい』にたどり着くと考えています。先入観ジャッジも、気にもならないでしょう。あなたはあなた、自分は自分。という状態だからです。
野菜が嫌いな例えでいうなら、嫌いな野菜が出てきたな、どうやって回避しようか?(相手に対する怒りや攻撃にならない)となるはずですし、某CMの件だと、そんな考えや感情を抱くことがあるんだなぁ〜ふーん、そうか、で終わるものです。
そして、この先入観ジャッジをしない状態で在り続けることこそが『悟る』という状態に他ならないと思うのです。善悪をジャッジせず、すべてを受け入れる状態です。果たして、自分の自我をなくすことができた、本来の魂までたどりついたと考えているとしたら、まわりの物事へ、いちいち反応したり、◯◯はこうだ、こうでなければならない。と表現するでしょうか。少なくともこのブログの方はまだ『悟り』へはたどり着いた状態ではないと考えます。
そして、私には『自我』は悪で、『自我』をなくならせなければならないという先入観ジャッジをしているように感じました。『自我』が悪だとしたら、『自分は悪いもの』だと言っているようなものです。自分が『自我』のうちの1つ、先入観ジャッジをしていることに気がついていないのかもしれません。前頭に言ったように、この世界は鏡です。自分の前に何度も同じ状況や同じ出来事が起こる時は、自分を見つめ直すきっかけ、チャンスが来たと言えるでしょう。人間はそうそう簡単に『悟りの境地』にはなれません。この鏡の世界で、違和感に気が付き、先入観ジャッジをしている自分を見つめ直し(内観して)善と悪を受け入れいく。自分の弱さや悪いところ、良いところも含めて、自分を好きになる、精神を丸くしていく。
特に私のような『経験を重ねることへ意味がある』と感じるタイプの人はその道のりがゆっくりかもしれません。でも私はそれで良いと考えます。
きっとこの内観や思考をおばあちゃんになるまでずっと積み重ね、やっと先入観ジャッジをしない状態で在り続けることができるかもしれません。
大切なのは、自分が常に先入観ジャッジをしているということを自覚しておくことだと私は思いました。そしてそれは気をつけるべきことではあるけれど、決して『悪』ではない。経験や内観、他人とのコミュニケーションを通してジャッジの幅に厚みや深みをもたせられるのではないかなと思います。(懐が広くなる)
まとめ、なぜ人は先入観でジャッジをするのか?
先入観ジャッジは『自我』の1つ。あくまでも私の考えとなりますが、これは成長していく過程での学びであり防衛であり知識です。反復反応と言っても良いのではないでしょうか。自分の信じているもの、貫いているものを強くもっている人ほど、その反応は大きいと私は思います。自分の経験や環境で得てきた価値観を無意識で理解することや価値観を変えることはとても難しいです。
ただ、先入観を変えることは少なくとも、自覚を持てばできると思います。
嫌いな野菜だったとしたら、それをよく理解し、観察すること。(知識を増やす)
感情をむやみに人へぶつけないこと。(自身で感情を昇華する)
1人の意見だけでなく、いろんな人の意見を聞くこと。(経験を増やす)
自分の視野を広げること。(成長すること)
この世界は鏡であり、自分が創っているという自覚をもつことです。
もちろん私はまだまだ先入観ジャッジを持っています。この文章も私が経験や知識を増やすと、また変わってくるかもしれませんね。
▶次は先入観ジャッジをしない状態で在り続けた先は何があるのか?長くなってきたので次のnoteで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます🤗
今後もあなたにとって少しでも楽しく過ごせるような記事を投稿をしていきますので、スキ・コメント・フォローなどを頂けますと幸いです☆໒꒱ Ulla