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其の伍 繁忙期がやってきた

 僕たちのチームリーダーを務めていた先輩は出向してすぐに鬱になってしまった。彼曰く、20年ほど前にも工場へ出向させられた上に酷い扱いを受けメンタル不調になった経験があるため、それがトラウマとなり工場勤務を受け入れられない体質になったとのことだった。開発部を率いる同じく出向者の部長との反りが合わない上に年齢的にも50代中盤で、今更そのような変化を受け入れることは屈辱であったのであろう。彼は年内で元居た職場に戻ることになった。僕たちの開発チームは限られた人材、限られたリソースをうまく活用し開発プロジェクトを前に進めることを考えていた。

2016年に入り、怪我を負い出向が遅れていた同僚がチームに加わり、「開発はカオスだ」との迷言を残した同じく出向者の開発部長は工場出身の生産部長と交代してしまった。僕たちが開発管理を行っていたプロジェクトはその同僚がリーダーを務めることになり、製品の2次試作や評価、部品コストの確認、筐体の金型作成に向けた準備、生産部門との各種調整、設計委託先との意見整合など業務はじわじわと増えてきた。新しい開発部長はワンマンタイプではあるものの、工場内の事情には精通しているため、派遣社員を増やしたり、技術的な相談相手を紹介してくれたり、開発の進捗会議をコーディネートしてくれたりした。出向当初は全く見えていなかった開発完了というゴールが徐々に形になって見えてきたような気がしてわずかではあるがやる気が出てきたと記憶している。

プライベートの方も徐々に調子を掴めてきた。TVは無くてもAmazonプライムビデオやその他のインターネットTV、YouTubeで好きなスポーツやドラマやアニメを見ることができた。元々好きだった作家の小説だけでなく、起業または副業に向けてビジネス書、ハイレゾ対応のオーディオや音楽ソースを紹介する雑誌なんかも読書の対象に追加した。テニスクラブでは教え方が上手いコーチのレッスンばかり受け、そこで知り合った同年代のテニス仲間に誘ってもらい、週末にテニスをできる環境も整った。学生時代に過ごした一人暮らしの感覚が徐々に甦り、ついでに恋愛でもしようかな、などと下心も甦ってしまうことも何度かあった。

 そんな折、先日申し込んだセミナー料の支払いが口座に入れておいた金額不足で滞り、督促のハガキが自宅に届いたことで妻と大ゲンカをすることになってしまった。妻から見たら住居のローン返済に充てようとしていた貯金を僕が勝手に使った、と見えたのだから仕方がない。恐妻家である僕はひたすら謝り、真剣に学んで副業として稼げるようになるまで頑張ることを誓った。

 時は経ち職場は新しい年度、2016年度に突入した。開発中だった機種はこの頃から僕がリーダーを務めることとなった。ウチの事業スタイルにおいて業務のボリュームが集中しているのはプロジェクトの後半である。本当はこんな時期にリーダーを引継ぎたくはなかったのだが、他の開発プロジェクトも平行して進めたいので頼む、と開発部長に懇願されたためやむなく引継いだのだ。4月の中旬、営業部門がある東京のオフィスと地方工場の間でテレビ会議が開催された。それまで工場側のメンバーが必死になって頑張ってコストダウン活動を進めてきた製品の材料費や加工費を集計し、東京にいる事業部長の決裁を受ける段になって工場側メンバー全員が激怒するような事態が発生した。材料費や加工費など工場側がコントロールできる部分で目標は達成できたのに、工場と事業部間でどちらが何%の利益を採るかが整合されておらず、この開発を一旦停めて別の機種の開発を進めることになったからだ。会議の進行役を務めていた僕は、東京側の元上司が適当な言い訳をする途中で思わず回線をオフにしてしまった。だが僕の行為を咎めるメンバーは工場側には誰もいなかった。苦労を共にしてきたメンバーは皆僕と同じ思いであったのだろうと思う。経過はともかく僕たちの開発チームは別の機種の開発を優先することを正式に指示され新たに設定されたゴール、すなわち8月の設計完了に向け急ピッチで設計確認や評価を行うこととなったのである。

 

忙しいときはとんでもなく忙しくなるのが世の常、件のセミナーも2016年の3月頃から本格的にスタートした。月に2回程度自宅に戻り、本来であれば家族との団らんを優先すべきであったのだが高いお金を払ったこともあるので都内で開催されるセミナーにはできるだけ参加した。

 さてこのセミナー、ビジネス書を中心に様々な書籍と電子書籍を数千万部編集したり発行したりした講師Aのする話はさすがに面白く、200名を超える参加者の耳目を集める魅力的な内容であった。AmazonのKindleストアに電子書籍を載せる手順やMSワードで作成したファイルのフォーマットを変換する方法をまずレクチャーし、それから彼の本分である編集に関することをいろいろと教えてくれた。彼は「奴隷(社畜)解放」や「若者を育成するリーダー」であることをモットーとしており、シニカルに大企業やサラリーマンを批判し、TVにも出演するような有名人との逸話を語り、下ネタも交えつつインターネット時代を生き抜くためのスキルを披露してくれた。ウィットに富み、ユーモアにあふれる彼のトークは本当に面白かった。既に十分資産がありそうな壮年の事業家らしい男性、自分で会社を興した女性起業家、実力がありつつも会社に縛られることを嫌うサラリーマン、若く一途にライトノベルを書き続けている駆け出しの小説家、海外旅行をしながら自由な生活を送るPT(パーマネント・トラベラー)、海外で事業を興した起業家、LGBTの方などなど本当にあらゆる職種、年齢、性別、性的志向の参加者たちが彼の話を楽しんでいた。

一方、Podcast番組の作成をレクチャーする講師Bの話は良くも悪くも想定の範囲内。Podcastに自作の音声プログラムをアップロードする方法、音声プログラムを作る手順を教えてくれるところまでは講師Aと同じ。そこから先はそれまでに僕が受けた様々なプログラムで教えられた内容そのままか、多少アレンジされた内容、それに加え彼が今までいくら稼いできたかというちょっとした自慢話に近い内容であった。どんなビジネスであれ、自分のメディア(オウンド・メディア)を構築し、SEO対策(検索結果で自分(自社)のサイトが上位に来るようにするための対策)を施せば、それなりの収益は得られることは彼の話を聞くまでもなくある程度理解できていた。セミナーの際に隣に座った男性も「Aの話は面白いけど、Bは人を馬鹿にしているな」と激しく憤っていた。僕は講師Bに年齢が近いこともあり、そこまで悪い感情を抱いてはいなかったが、Podcastのプログラムを作成することは後回しにしよう、電子書籍の作成に力を入れようと心に決めた。ともあれ支払った金額に見合うリターンは得たいと思い、どちらの講師の話も参考になる部分はしっかりとノートを取り、時間がある時に振返ってみようと考えた。他の参加者ともできるだけFacebookで友達申請を行い、人脈を広げる努力をした。既にいくつかの企業を経営し書籍を出版されている方や、ヨガのインストラクター、起業家、ミュージシャン、イラストレーター、Webデザイナー、モノづくりが好きな主婦、本当に多くの人が僕のFacebookのタイムラインに登場するようになった。「友達」の数は300人を超え、このコミュニティに属することの喜びと感じるようになって来た。

このようなハードながらも充実した期間はこの後数か月続くこととなる。飛行機や電車での移動中にしろ就寝前のベッドの中にしろ、常に仕事のことと電子書籍のことを考えることがいつの間にか僕の習慣となっていた。

2019年はフリーターとしてスタートしました。 サポートしていただけたら、急いで起業します。