
丹生川上神社 〜古くて新しい雨の大社〜
こんにちは、秘境が丘です。普段は旅行記ばかり書いているのですが、今回はちょっと真面目な神社の研究的な記事です。個人的好きな神社として3本の指には入る奈良県の丹生川上神社についてです。
皆さんは丹生川上神社をご存知でしょうか。神社好きであればご存知の方は少なくないでしょうが、あまり知名度が高い神社ではないかもしれません。場所も奈良の奥の方に位置しており、さらに上社、中社、下社の三社がそれぞれ全く異なる位置に鎮座しているため、奈良県の高校に通っていた私でもなかなか行くことができず、大学3年になった2022年の夏に初めて足を運ぶことができました。まずはその時の旅行記から書いていこうと思います。
第1章 丹生川上神社旅行記
2022年8月16日、お盆明けに実家から車で神社を目指しました。下の地図1の通り、丹生川上神社は三社とも奈良の山奥にあり(吉野、金峯山寺よりももっと山の方と言われるとその遠さが伝わりやすいかもしれません)、一日で公共交通機関を使ってめぐるのはかなり厳しいのでドライブを兼ねて車で行くことに。
※以下、写真は特に注記がない限り筆者が撮影

地理院タイルを加工して作成
三社巡りをしたい場合、特に巡る順番は決まってないので巡りやすい順に参拝できます。下社、中社、上社と名前がつきながら参拝の順番が決まっていないことの背景には特殊な経緯があります。これは第2章で触れたいと思います。
下社
まず目指したのは下社です。下市町、丹生川沿いに立地しており、三社の中で最も早く丹生川上神社として比定(第2章で詳しく説明します)された神社です。

見るからに立派です。近づけるのは手前に見えている拝殿までで、山の上に小さく見えている建物が本殿です。拝殿から本殿には長谷寺の回廊を彷彿とさせる立派な階段が続いていて圧巻です。これは「階」と呼ばれ、2019年に約150年ぶりに新しくなったばかりだそう[1]。
[1] “丹生川上神社下社 150年ぶり遷座祭 社殿修復終了で 下市 /奈良”. 毎日新聞ホームページ. 2019.
この神社の特色、一番目立っているものはこの御神馬でしょう。御神馬がいる神社は関東にも神田明神や日光東照宮がありますが、ここまで広々とそして白黒二頭もいるのは正直びっくりしました。

御神馬を見ているだけで時間があっという間に過ぎていきます。御朱印をいただいて今度は上社に向かいます。
上社
30kmほど車を運転するとたどり着くのがこちらの上社です。川上村、吉野川沿いに立地しており、二番目に丹生川上神社として比定された神社です。

社殿が新しそうなのがお分かりいただけますか?実は1998年に神社が移転し、社殿が新築されたからなのです。これについては第3章で詳しく記します。
写真が逆光で非常に分かりづらく申し訳ないのですが、こちらには両脇に馬の銅像があります。向かい合う形になっているため完全に狛犬の立ち位置を奪っているように見えて面白いですよね。というか狛犬がいないことが驚きです。ここで下社の写真を見返してみたところ、なんと下社にも狛犬はいませんでした。どうしてここまで気づかなかったのか…
ちなみにここはかなり高台にあり、谷底にある大滝ダムを見通すことができます。
中社
上社から20kmほど少し狭い道を、神経をすり減らしながら運転するとたどり着くのがこちらの丹生川上神社中社です。単に丹生川上神社ということもあり、社号標にはそう書かれています。東吉野村の高見川沿いに位置しています。また、最後に比定された神社です。

当日は献燈祭ということで下の写真のように名前入りの灯籠が拝殿を取り囲んでいました。風情があっていい感じです。

こちらには拝殿の奥、本殿の前に狛犬がちゃんといました。ちなみに拝殿の中には東電と関電が黒部ダム完成時に奉納した、白と黒の馬が描かれた「祈雨止雨祈願絵馬」という、幅が1m弱はありそうな大きな絵馬が頭上に飾られています。これで三社とも馬要素をコンプリートすることができました。
丹生川上神社の御祭神である罔象女神は「祈雨・止雨のみならず、安定した電力配給の水源をもたらす神様でもあらせられます。」[2]とのことで、黒部の水のお祈りを、遠く奈良までしに来るほどの崇敬を受けているのは驚きです。大ヒット映画「君の名は。」のヒロイン、三葉の名前はこの罔象女神が由来だそうです。
[2]“境内のご案内”. 丹生川上神社ホームページ. 2022.
話を神社に戻しましょう。向かいの高見川はちょうど日裏川、四郷川と合流しており、夢淵と呼ばれる深い淵になっています。

そして日裏川が注ぐところに東の瀧という滝があり、パワースポットとして訪れる人も多いそうです。こんな淵と滝があったらそりゃ昔の人も感動してここに神様がいると思いますよね、と納得してしまう美しさでした。

ということで、ここまでが旅行記です。ドライブしながら神社を巡る楽しさに気がつかされました。三社でいただいた御朱印も載せておきます。

現在は丹生川上神社三社めぐりと題して和紙に三社の御朱印をいただけるのですが、私は御朱印帳直書きへの熱い想いがあるのでこちらを選択しました。丹生川上神社が三つ並び、それぞれ個性がありながら統一感もあり美しく大満足です。一番大きな四角の朱印がほぼ共通しているのですが、中社だけ「官幣大社」の前に「旧」がついていますね!
第2章 丹生川上神社の御由緒、御祭神
丹生川上神社は675年に天武天皇により創祀されたと伝えられ、御祭神は罔象女神、社格としては「延喜式」名神大社、また二十二社の一つとして位置づけられ朝廷に崇敬されてきました。ここまでの影響力を持っていながら、戦国時代以降には所在地が不明になるほどに衰退をしてしまいます。近世以降、本来の丹生川上神社の所在地の比定に関する研究が活発になり比定が進んでいきます。明治の近代社格制度において、丹生川上神社はその頂点である官幣大社とされています。
江戸時代以降の名称や祭神の変遷について表を作成しました。以前の主祭神の「以前の」は三社それぞれ少しずつ基準となる年が異なるので注釈を参考にしてください。

御由緒、比定の歴史
私なりの理解となり正確性には欠ける面もありますが、できる限り分かりやすく説明をしていこうと思います。
平安時代には二十二社(簡単には重要な神社としての称号)の一つであり、古代、特に奈良時代には朝廷から雨のお祈りに関して他の神社とは別格の扱いを受けてきた本来の丹生川上神社でしたが、戦国時代には大きく衰退しどこにあったかもわからなくなってしまいました。
江戸時代に国学が盛んになるにつれて丹生川上神社の所在地にも関心が集まるようになりました。そこで本来の丹生川上神社探しである比定が行われるようになります。まずは「丹生川沿いにある丹生大明神!丹生の地名があるしこれが本来の丹生川上神社に間違いない!」ということで、丹生大明神が「丹生川上神社」を名乗るようになります(現在の下社)。
その後、当時の「丹生川上神社」少宮司であった江藤正澄が「平安時代の本[3]に書いてある本来の丹生川上神社が存在するとされる範囲(四至)に今の丹生川上神社(下社)は一致しない… ならばその範囲にある神社を探そう!」となり、川上村に当時あった高龗神社を見つけてきたのです。こうして「丹生川上神社上社」を名乗る神社が登場します。
そして大正になって現れたのは春日大社宮司の森口奈良吉。彼はこれらの二つの説を主に四至の不一致を根拠に一刀両断し、「下社も上社も本来の丹生川上神社であるはずがない。蟻通神社こそが本物の丹生川上神社だ[4]!」と主張して(これがまとめられているのが「丹生川上神社考」という本です)中社を比定、ついに今の三社体制に落ち着いたのです。
「丹生川上神社考」は大正時代の本でかなり読みにくいですが、内容はとても面白いので興味を持った方はぜひ読んでみてください(国立国会図書館デジタルコレクションにて無料で読めます)。
[3]「類聚三代格」にある寛平7年(895)の太政官符
[4] 四至の一致の他にも石灯籠(国指定重要文化財)や神社の古書に「丹生社」「丹生太神宮」とあることなどの様々な根拠を示しています。
御祭神
上社と下社が祀っている高龗神、闇龗神は龗神と総称されることもあります。どちらもイザナギがカグツチ(イザナギとイザナミの子)を斬った時に出現した神(雷神もその一人)で、降雨、止雨を司る龍神です。
高龗神を祀っている水の神社としては京都の貴船神社も有名で、その社記に高龗神、闇龗神は「呼び名は違っても同じ神なり」とあるように同神異名の説もあります。「丹生川上神社考」には上社、下社がわざわざ御祭神を元の龗神から変更した経緯が記されており、一例として古事記や日本書紀に龗神という総称が出てこないことが挙げられています。
中社も同様に御祭神を変更していますが、こちらは同書で蟻通神社の御神体として戦国時代の狂乱から守られた罔象女神の木彫座像があったと言及されており、その座像の信憑性が高いと認められたことがきっかけと思われます。ただこちらは、中社の御祭神を本来の丹生川上神社が祀っていた罔象女神に変更することで本物の(というと語弊があるかもしれませんが)丹生川上神社としての威厳を持たせようとしたようにも思えます。
馬との関係
少し話が変わりますが、先ほどの旅行記には全ての神社で馬に関わる話が出てきました。それは丹生川上神社が絵馬の発祥地と言われており、朝廷から繰り返し祈雨の際に黒馬、祈止雨の際に白馬を献じられたことがきっかけになっています。このような朝廷による馬の奉献は、平安時代にかけて雨に関する儀礼で別格の扱いを受けていた丹生川上神社と貴船神社だけがされてきたもので、その中でも奉馬の例は貴船神社5例に対して丹生川上神社42例[5]と圧倒的であり、丹生川上神社がいかに崇敬を受けていたかがわかるものとなっています。
[5] 岡田,1993
第3章 丹生川上神社上社の歴史 〜ダムによる移転を経て〜
ここまで丹生川上神社全体について説明してきましたが、ここからは上社について詳しく書いていきます。
旅行記にもあった通り1998年に移転をしたこの神社、その移転の理由は旧社地が大滝ダム建設によってできた湖(おおたき龍神湖)に沈んでしまったからです。上社では移転が決まると奈良県立橿原考古学研究所によって旧社地の発掘調査が行われました。そこで見つかった遺跡が「宮の平遺跡」であり、平安時代の祭壇跡や縄文時代の祭祀跡とみられる遺構が発掘されています[6]。さらに神社の建物は同じ場所に建て替えられ続けていたこともわかっており、これらの結果から元の上社の所在地には古くから祭祀を行う空間があり、その場所には特別な意味があったと考えられています[7]。
ダム建設前の上社は川上村の中心地区、役場も位置する迫地区にありました。神社を沈めることになった大滝ダムは伊勢湾台風をきっかけに計画された多目的ダムで、計画当初から住民の猛反対に遭いました。この理由は、村の中心部を含めて住居の移転を余儀なくされる者が多かったことに加え、川上村の人々は吉野川を誇りに思っておりそれが改変されることへの反対も大きかったと言われています。大滝ダム誌にある「吉野川とのかかわりが川上村の運命を決めていった」という文言は非常に印象的で、このようなものからは川上村の住民の水や川を大切にする考え方が伝わってくるだけでなく、平安時代、さらに縄文時代にかけて人々がこの地で祭祀を続けてきた歴史が今に続いていることをも感じさせます。
ちなみに湖の名称に「龍神」とありますが、これは公募によって決定されたもので、「広報かわかみ」平成25年 4月号には「地域の人々の永く変わらぬ源流・吉野川への畏敬の念から『龍神』の文字をいただきました。」とあり、上社については「水神としての信仰があつく、その思いは今日も変わることはありません。」ともあります。ダム湖の名前にもその過去の姿を刻み、歴史を超えて吉野川への畏敬の念を共有していってほしいと思います。
[6] “源流の縄文遺跡―宮の平遺跡の全貌―”. 奈良県立橿原考古学研究所ホームページ. 2005.
[7] “御遷座と元境内地・宮の平遺跡”. 丹生川上神社上社ホームページ. 2022.
写真9、10は現在の社殿(新本殿)と移転前の社殿(旧本殿)の位置関係を空中写真上で示したもので、写真9はダム完成前、写真10はダム完成後のものです。

国土地理院撮影の空中写真(1974〜1978年撮影)を加工して作成

国土地理院撮影の空中写真(2014年撮影)を加工して作成
写真9、10を比べると旧境内が集落の中にあった一方で新境内がかなり奥まった山中にあること、周辺の集落の戸数がダム完成後にかなり減ったことが読み取れます。大滝ダム誌によると、もともと旧境内周辺に所在していた迫地区はダム建設時に旧国道が沈むことで必要となった新国道のルートに対する意見の相違から分裂し(トンネル建設を認めるかどうか)、さらに川上村外に引っ越した人も相次いだことから、人口が昭和35年の387人から平成27年には93人と大幅に減少しました。この写真10に写っている集落はその分裂した一部である迫(宮の平)地区であり、平成27年の人口は迫地区全体のさらに半数程度の45人となっています。ダム建設で川上村全体が揺れるなかで、現在上社の宮司である望月康麿さんは奈良新聞のインタビュー[6]のなかで次のように述べています。
先々代の宮司から、遷座は地域住民の協力は一切求めずに進められたと聞きました。もちろん、地域住民の方々のご負担がなく、遷座したことは素晴らしいことです。
ただ、地域住民は今の生活を守るために国との話し合いを進めるなか、神社は国から補償をいただき順調に遷座が進められたために、本来、氏子より理解と赤誠を頂き進められるべき信仰による遷座の姿が失われてしまいました。
なので、地域住民の信仰を取り戻すということはとても難しいことでした。
旧集落では密な関係を保っていた住民と神社の間に強制力を伴ったダムが介入することによって、神社と住民との間に立場の違いによる心の隔たりが生まれ、その結果として神社の原動力である信仰が弱まったことへのやるせなさを表現されているように感じました。また、もともと集落に密接していたものが移転により集落から離れてしまったことも信仰が弱まった一つの要因だったかもしれません。最近では宮司さんが境内で宴会をするなどして少しずつ地域の人に愛される神社へと戻ってきているようです[6]。旧官幣大社という力を持った神社といえども、地元の人の崇敬がなければ神社として安泰ではないということなのでしょう、納得のいく方向性で神社を守っていただいていると感じました。
ダム湖には元の上社の所在地を示す浮桟橋が設置されています。自分が行った時には水位が高かったのか、見つけることができなかったのですが、もし見えたらそこにあった川上村の生活や旧上社(旧社殿は現在飛鳥坐神社に移転)に思いを馳せてみてください。
書ききれなかったことも多々あるのですが、ここまでにしたいと思います。これをきっかけに丹生川上神社に興味を持っていただき、実際に足を運んでいただけると幸いです。写真と私の稚拙な文章では伝えきれないですが、山深く清らかで神社としての素質が高いだけでなく、様々な歴史が複雑に絡み合っていて深く知るほどに飽きない神社だと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
[6] “丹生川上神社上社の過去・現在・未来を語る”. 奈良新聞デジタル. 2021.
参考文献
大滝ダム誌編集委員会. 大滝ダム誌 : おおたき龍神湖誕生物語. 奈良県川上村, 2018, 237p
岡田干毅. 日本古代の祈雨・祈止雨儀礼について : 祈 (止) 雨特定社をめぐって. 人文論究. 1993, vol. 43, no. 2, p. 56–69. https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202538311680.
橋本裕行. 社殿の創建と継続--丹生川上神社上社旧境内地. 季刊考古学. 2004, no. 87, p. 17-20.
森口奈良吉. 丹生川上神社考. 森口奈良吉, 1918, 43p
貴布禰総本宮 貴船神社. “貴船神社について”. 貴船神社ホームページ. 2022. https://kifunejinja.jp/shrine/, (参照 2022-11-3)
国土地理院. “地理院地図(電子国土Web)”. 国土地理院ホームページ. 2022. https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html, (参照 2022-11-3)
神仏霊場会. “神仏霊場巡拝の道 第40番 丹生川上神社上社”. 神仏霊場会ホームページ. 2022. http://shinbutsureijou.net/nyukawakami.html, (参照 2022-11-3)
奈良県川上村. おおたき龍神湖 誕生の秘話. 広報かわかみ第673号. 2013-04, p.14. https://www.vill.kawakami.nara.jp/life/docs/2017012800083/files/ma-2013-04.pdf, (参照 2022-11-3)
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館. “源流の縄文遺跡―宮の平遺跡の全貌―”. 奈良県立橿原考古学研究所ホームページ. 2005. http://www.kashikoken.jp/museum/tenrankai/tenrankai-kiji/2005/miyanotaira/tenji-1.html, (参照 2022-11-3)
奈良新聞. “丹生川上神社上社の過去・現在・未来を語る”. 奈良新聞デジタル. 2021. https://www.nara-np.co.jp/web/20210925211855.html, (参照 2022-11-3)
丹生川上神社. “境内のご案内”. 丹生川上神社ホームページ. 2022. https://niukawakami-jinja.jp/keidai/, (参照 2022-11-3)
丹生川上神社上社. “御遷座と元境内地・宮の平遺跡”. 丹生川上神社上社ホームページ. 2022. https://niu-kamisya.jp/about/#yuisho, (参照 2022-11-3)
毎日新聞. “丹生川上神社下社 150年ぶり遷座祭 社殿修復終了で 下市 /奈良”. 毎日新聞ホームページ. 2019. https://mainichi.jp/articles/20190601/ddl/k29/040/439000c, (参照 2022-11-6)