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何もしない星の日曜日
新型肺炎が蔓延している一つの星の日曜日。
日本という国では桜の花が散って葉桜が目立つ。
私という一人に焦点を当てれば、今日は何もしない日だった。
別に今日に限って「何もしない」を実行している訳ではないのだけど、今日は特別することリストのことも何も考えず「何もしない」のだ。
私たちは大人になるにつれ、社会から、社会という価値観にはまった人たちから
「自己の為になることをする」を要求される。
それは時間、お金、人力を大事にするが故の結果だと思う。
有意義な生活を送ること。
大人の言う有意義な生活ってなんなんだろう。
それって大体人生何年目、何回目で分かる話?
私はイメージでしかその生活を見れていないから、きっと文句を言うのはまだ早いんだろうなと思う。
私は俗に言う『厳しく育てられなかった枠』に分類されるであろう女だ。
表面上現実的で真面目に仕事に取り組んでいるであろう父は
私たちの生活する場所とは別の場所に住んでいる。
母は私たちが2歳と1歳になる前に女手一つで姉と私を育てた。
「放任主義」
その母自身が昔親にやりたいことを否定された...という静かな恨みから、
この育て方が生まれたのだと私は推測している。
3人女家族間でそれぞれトラブルや深い傷を負ったものの、私たちは結果として伸び伸びと20年間を生きてきたと思う。
私は小学高学年ほどから、
“人に認められたい欲”
が尋常じゃなく溢れていた。
カーストでいうと上の男子たち、デコを出した女子たち。
別にそこらへんにいるだけで好きじゃないけど、当時の私からすれば好かれる必要があった。
詳しくはここに記すことを控えるが、
「自分だけは人に必要とされなきゃ。」という意識が強かった。
この意識を持った同様の子供はきっと私の他にも何人かいたんだろうけど
ここで思い切った行動に出るか出ないかもきっと人格のちがいだったのだろう。
気付けば私は人前に出るということを、中心的人物といわんばかりのポジションを引き受けることが好きになっていた。というか、私以外に誰がやるんだ?と思っていたくらいだ。
「めんどくさい・恥ずかしいと思われる役を担うだけで、一歩踏み出すだけでこんなにも人に認められる。」
「人ってちょろい。」
「自分みたいなことを嫌うような人間はすぐに気持ちが変わる。そのうち私のことも好きになる。」
というひとつのパーツに関して十分すぎるほどの自信がついた。
良いか悪いかは置いておいて、私の癖の一つにまた、
挑戦の勝算が出ていないときは不安で怖くてたまらないのに、
人から認められて...つまり勝ったときはめっちゃくちゃに鼻を高くする。
ふんだ!バーーーカ!舐めてたお前が悪りぃーんだよ!
こんな青春時代を過ごしていたら、
いつの間にかそんな奇妙な性格が定着していた。
一度捻じ曲がったこの性格は、
異国で厳しい波に流され、姿勢を正される......ことなく、新年度を迎えた。
私の右肩で、自分と同じ顔をした黒い服の小さい私が、
「絶対私のやり方でめっちゃかっこよくなるかんな覚えとけよ!」とチップスを頬張りながら叫んでいる。
これは野心だ。
同じく左肩で震えている白い服の私は、
「まずは安定した収入を得ないとなんにも出来ないし...筋を通さないと...」と嘆く。
これは弱虫なんだ。
「何にもしない」をするこんな日には、
よく考え事が捗って自分の中で二人が葛藤している。
だけどこんなに白く、ふわふわ、もくもくの考えごとの雲も、一睡すれば忘れてしまう。
一体なんの意味が?と社会に問われるこの無意義といわれるメモも、
いつか誰かの野心と弱虫を仲良くさせる手助けにならないだろうか。
ああそろそろシャワーを浴びないと。
明日は「何かをする」日なんだ。しなきゃいけない。
小さなウイルスが人を襲おうと人の影に潜んでいる。
まだ、外に出ていいんだよね...?と弱虫が確認する。