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宗教が伝達される時の、話し言葉、書き言葉

宗教が伝達される時の、話し言葉、書き言葉


7月末、あまりの暑さや気候不順から来る体調不良に苦しみ、文章をまとめる気力が出ませんでした。 8月末も台風の居座りに苦しみました。9月になってやっと書く気力が戻ってきた感じです。

 そこで、ここのところ言語に関する関心を文にしてきましたが、そこから派生して、自分が宗教を考える時に、体験や行は別として書き言葉に頼りすぎてなかったか?という問題意識が出てきたので、その事について書きます。


きっかけの一つとして『声と文字の人類学』という本を読んだこともあります。人類学の本ですが、現代を生きている我々は、活字で均質な文字を共有しているのを無意識の前提として情報の伝達を考えていますが、人類史においてはそんな時期はほんの200年足らずで、それ以前は書かれた文字といえども我々の受け取り方とは違う意識で受け取られていた、ということがくわしく論考してある本でした。
例えば、聖書の手書きの写本は、句読点や文節の区切りがなくて、そこから誤解なく意味を汲み取るには内容をほぼ暗記している聖職者の存在を前提としていた、などはちょっと目からうろこでした。
当の書き文字でさえ、現代の我々の意識では、石碑に刻んだりするのは、ある情報を忘れずに広く伝えるため、と理解しますが、この本によるとローマの古代から中世においては、広く伝えるため、というより石に刻むことにより何か人間を超えたものに捧げた、という意識の方がよりまさっていたそうです。
そして、この問題意識をもって自分の職業を考えてみると、さすが伝統宗派ですね、“均質な文字による伝達”を前提としていない様式がそこかしこに残っています。
 
 まず、親鸞さんが亡くなってしばらくというのは、直接の指導をうけたインテリの弟子達以外は、一般に文字を読める人は少なかったので布教にあたっては親鸞聖人の生涯をまとめた劇的な形の物語(現在の『真宗聖典』では『御伝承』と言われている)を語って聞かせる、というのが重要な要素だったようです。(*1
 そこで従来の仏教と専修念仏がどう違うのか? がエピソードとして語られるわけです。そして、親鸞聖人とはいかに普通の人ではないかを霊的エピソードを含めて語っていくことで教義を分からせる、が重要なテーマとされていました。
そして、それは後に『伝絵』といわれる絵をともなって「御伝承の拝読」(いわゆる「絵とき」形式の説法)として年中行事の一部になって現在も継承されています。(あまり盛んではないけど…。)

 そして、なんと言っても真宗教団が大きくなった一大要因である蓮如さんの『御文』。蓮如さんが門徒さんに出した大量の手紙類。 これを読み方の形式を伴った形で僧侶や文字を読める代表者が読んで、文字を読めない人はそれを耳で聞いて覚える、という形式。
蓮如さんは難解な親鸞聖人の主著『教行信証』をなんとか耳からきいて、その言わんとするところを少しでもわかるように、四文字熟語をキーワードとして多様するという型で信者に語りかけるような手紙を大量に全国に出されました。それを蓮如さんのお子さんやお孫さんが収集して木版におこす形でさらに全国津々浦々までとどけ、読み方の形式を整えたのが現在『御文』として知られているものです。(本願寺派では『御文章』と言います。年中行事、お葬式、法事、どれにでも使う儀式の中の一部になっています。)

そして、この耳から聞いたキーワード、例えば「報恩謝徳(ほうおんしゃとく)』や『信心決定(しんじんけつじょう)という四字熟語の意味を皆んなで談合する、(談合と言うと今日では悪い意味で使われますが、蓮如さんの時代には活発に声に出して議論するという意味でした。)
これが室町末期から昭和初期くらいまで続いていた、真宗門徒の生活にくりこまれた教義理解のための様式でした。 そこでは“耳で聴く”、は理解のための大きい要素だったようです。

しかし、明治中期くらいから学校教育で“均質の活字を黙読できるような国民をつくる”、が教育の目標の一つとなり、(*2  
それをできる人が増えるにつれ真宗理解にちがう様式が現れます。それは孤独に読書をして『歎異抄』などを理解する、という様式です。
これがインテリを中心とした親鸞ブームを明治末期から大正にかけて作ります。


この事ついては来月に書こうと思います。





(*1     『語られた親鸞』/塩谷菊美 法蔵館  1章 「物語り型の教義書」参照
(*2      『声と文字の人類学』 NHKbooks       5章 「文字が読む人の声を奪う」参照


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