見出し画像

「中道」について考えたこと 】

「先制防御」については、まだ言葉にできないことが多く、次回以降に先送りして、今回は自分の職業領域である仏教の言葉「中道」について考えたことを書きます。

「極端なことをさけ、中道にとどまる」は仏教の考え方としてよく耳にされるところだと思います。
「穏便なことを好めばイイんでしょ。」という解釈は論外として、この言葉を解釈するのにインドの八宗の祖である龍樹の「中論」を引用してきて論理学として述べる…というのも肌に合う人が多いとは思えないですね。
仏教の言葉は煩悩を減らして心を穏やかにするためにあるので、苦しみを増す感情を洞察する一助になるべきだろうと私は考えます。
そんな意識でみていたら、木皿泉という脚本家のエッセイに「おおう…」と思う言葉がありました。
『私の敵』というタイトルのエッセイで彼女(木皿泉は夫婦2人でのネーム、これは奥さんの方のエッセイ)は「厚化粧の例え」を書いていました。

 「世の男性の中には、厚化粧の女性を見てグロテスクだとおもう人もいるだろうが、初めからそうしようと思っているわけではない。自分で化粧をやってみるとわかると思うが、一部をきれいにすると別の汚いところが目につくのである。__中略__という連鎖でどんどん化粧を重ねてしまう。たぶん美容整形も同じだと思う。__中略__そんなことを続けていると迷路の中にいるような気持ちになる。全体を見渡せない穴のような場所に落ち込んでしまうと、自分がバランスを崩していることに気づかないものである。」

この“穴のような場所でバランスを崩す”ことが、「中道からはずれる」と考えるのが中道を解釈するにはいいアプローチだと思いました。
よくなろう、とする想いに取り憑かれて俯瞰できない、これが煩悩という言葉が言いあらわそうとすることの重大なポイントではないかととも思います。
誰しも自分の長所を伸ばしてそれで生活をおおってしまいたい……と想っていると思うのですが、長所と短所はある意味隣り合わせであり、どこかに客観的に見る視点がないと諸刃の剣になり得るという危うさが表面化します。
そして、彼女はエッセイの中で、俯瞰できない原因についても言及しています。

 「こういうとき、なぜ一歩離れてみるということができないのだろう。熱中しているとき、欲にかられているとき、誰かに負けたくないと思っているとき、仕返しをしたいとき、冷静に全体を見るということがなかなかできない。」

ここで彼女のあげた4つの心理状態は、そのまま煩悩の分類項目にしてもいいくらい的を得た指摘だと思いました。しかし、いったん俯瞰できるとその熱中やこだわりはすぐに変化し初めます。それを彼女は
 「顔も同じかもしれない。少しのシミやたるみなど、いちいち人は気にしていないのではないか。顔だけではない。ここでやめたら負けになるとか、損をしたら笑われるとか、そんな見栄は自分が思い込んでいるだけで、他人は自分のことで精一杯で、何とも思ってないかもしれない。」

というように書いています。
自分の損得や勘定を俯瞰して、やや離れた遠めの視線で自分を見つめる、これが「中道」という言葉で仏様が導こうとしている生活態度ではないかと彼女の例え話しを読みながら思いました。
自分を振りまわしている感情から解放されて幸福に生きる、というのが仏道でしょうから、この思いつきは悪くないと思いました。

「中道」という言葉は自分にとても身近にある感情と関係する事として、大切に解釈する必要がある言葉だと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?