【仏教と一昨年前から今年に経験したこと】
【仏教と、一昨年前から今年に経験したこと】
去年は元旦のっけからの能登半島地震、2日には自衛隊機、日航機事故で明けました。
何か波乱だな〜とは想いながら暮らしていましたが、まずそれより以前に一昨年暮れに長年の
懸念ではあった統合失調症の兄の癌が進行、ホスピスに入った後、亡くなりました。
ある意味、長年の懸念が一つ減ったとも言えるのですが、それで気が楽になったか…というとそうでもなく、長年封印していた社会、特に思春期後半に京都社会に持っていた怒りが生活の合間にプスプスと湧いてきて厄介な心境になりました。
そうこうしている内に2月の終わり位から、家内が徐々に体調を崩しはじめ、3ヶ月経ってもどうにも家で過ごせる体調ではなくなり、ゴールデンウィークに入院しました。
約2ヶ月で退院しましたが、現在要介護3の状態でリハビリしつつ暮らしてます。
リハビリはかなり順調な方で、やれることも増えてますが、どうも私の方が前と同じ様に暮らせないのにイライラすることが多いです。(前というのは2年9ヶ月ほど前に脳出血で入院して退院、リハビリ後遠出はできない程度で、まぁ普通にやってた頃)
かなりイライラする時もあるので、“まずいな、このままでは気持ちが退廃していく”と思い
仏教を含め今まで学んできたことを見直して、自分の考え方を吟味してみました。
その中で“これは忘れてしまって、自分ごとにしてなかったな〜”と思ったのが、仏教由来の「三性
の理」という考え方でした。
おそらく臨済宗由来ですが、私はロボコン創設メンバーの工学博士の著書から学びました。
「三性」というのは善、悪、などの2元対立する価値に色づく前の、その事項の共通の本質を見る、というやり方で第三項をいつも心に留めておくという意味で「三性」と言うそうです。
例えて言えば、薬というのは人間にとって「善」ですが、毒というのは「悪」ですね。 そこであらゆる所で薬だけ追求しようとすると、行き詰まる。 なぜなら薬と毒は“身体の中に入って体調を変える”という点では同じであり、人間の価値判断が入って毒と薬に分かれるわけです。
同じく、「醗酵」は人間にとって善ですが、「腐敗」は悪です。しかし、“微生物の作用によって
元のものの性質が変わる”という事項は共通です。
このように対立する事項に共通の性質を見つけ、むしろそれを意識し続けることによって善用する機会を見つける、という考え方を「三性の理によって、もの事が全機する」と言うそうです。
家内がそれなりに物事ができていた頃と同じ感じで生活のペースが作れないことにいらだつより、自分の中の“うまくいっている” “うまくいってない”を「 」に入れて“2人の人間が生活を作っている”という共通項に意識を持っていけば、この状況を善用できることも想いつくかな? と現在は思っております。
一度聴いて理解して、人に話したりしていたことでも、まさ〜に身近で感情の起点とも言うべきところで起こることに応用するのは難しいようです。まぁ、その辺が修行ともいうべきところなのかも知れません。
よく私が言う口癖として「あー面倒くさい。」という言葉があります。これなどは「三性の理」の観点から見れば、まさしくもの事の本質をさぐってみようともしない、うまくいった時の記憶に頼った偏ったものの処理から出る言葉、ということになるのでしょうか?
一度分かったつもりになったことも、生活の基本、というところに変化が出るともう感情的に処理する、というのが凡夫の凡夫たる所以でしょう。
しかし身近なことから世界情勢まで、こんな凡夫性の強い個人が集まって処理しているせいで結果としての世界情勢もこんなもの、なのかもです。
『日本スチール』による『US スチール』の買収が大統領判断で否認されるなどというのは、「アメリカは鉄鋼分野を押さえている強い国だ」という一世紀くらい前にできたイメージをアメリカの関係者、国民が譲らない。 そして、実は利害調整の何たるかを分かっている大統領もそれに従わざるを得ない!というのが民主主義というものの凡夫性とも言ううべきところかな? とも思ったりします。
まぁ、あまりオオゴトを評論する前に、自分ごととして仏教から学んだことを自分の生活感情に応用してみることかなと思います。
世界というのは私も参加して、もの、事、として存在しているので、自分の生活が平和であることが世界が平和かどうかの礎だと思って生活しようと、2025年の年頭においては思ってはおります。