合評とはなんだ?
日頃から自分の言葉には責任を持っていたいと思っているが、何かあればすぐに感情的になる性分が災いしてしまい、反省を繰り返す日々である。
冒頭から何を言い出すのかと思われているかもしれないが、実際反省すべきことがあるのである。
先日私は自己紹介もなしに実体験を基にしたショートショート「バッタとセミ」を投稿したのだが、その中で「合評」というものに悪い印象を与える書き方をしてしまった。
書いている最中はアドレナリンとドーパミンが湯水のごとく湧き出していたので特に気にも留めていなかったが、熱が冷めた今は書いてしまったことに対する罪悪感が湧いているのである。
書いてしまったことはしょうがないし、記事を消すつもりもないがこのまま「合評」というものに泥を塗ったままというのは目覚めが悪い。
なので、私が大学生活を通して感じてきた「合評」という場がどんな場所であるかをまとめようと思う。
そもそも合評というものが何かという話である。
合評とは一つの作品を数人で批評するもので、いわゆる「勉強会」のようなものだと思っていただきたい。
私が通っていた大学では創作に専門性を置いていたので授業やサークルなどで何度も合評に参加する機会がある。
出される作品は学生の書いてきたものから太宰や芥川のような有名な作家が書き綴った名作まで多岐にわたる。
読む作品が多いのに比例してか、合評の場に集まる人間と言うのも多種多様である。
「ネットで謎の派閥戦争をしたと噂される同期」や「自らの恋愛と失恋を数年に渡って書き続けている先輩」、あるいは「学科は違うものの『隠れ文芸生』と自称する後輩」など、一癖も二癖もある学生たちが合評には現れる。
そして各々が自身が培った感性とボキャブラリを駆使しながら作品に対して感想や意見を言っていくのである。
先にあげた「バッタとセミ」では合評という場を「他人が頑張って書いた作品の粗を探し、それを指摘する場」と表現した。
これは間違いであるが、同時に正解でもある。
合評は一つの作品に対して意見をするという特性上、「良かった点」よりも「改善点」が出ることの方が多い。
他人の良いところより悪いところの方が目についてしまうというのもあるが、私を含めたアマチュア物書きが書いた作品というものは粗削りなものが多いため、必然的に改善点は多く見つかる。
誤字脱字は日常、ストーリーが破綻することもしばしば。作品を通して作者が何をしたかったのかが不透明など、改善点は山のように見つかる。
私が合評に作品を出した場合、講評を聞いた帰り道は十中八九で顔が死んでいる。というか無い。見せれる顔が存在しない。
作品を他人に見せるという行為は、ある程度の自作に対しての自信が無ければできないことである。
自分は出されたテーマに誰よりも向き合った。
誰にも思いつかないような奇想天外な作品が書けた。
今出せる自分の全力を注ぎこんだ。
そんな自信を持って送り出した作品から改善点が山ほど見つかるのだ。
当然ながら心にクるものはある。場合によっては筆を折る人間や、指摘を悪意あるものだと感じる人も出てくるだろう。
結論から言うと、作品を貶そうとする人間はそうそういないので深く気にする必要はない。
合評という場の本質は「作品に対する意見交換」「作品の質の向上」「考えたことを言語化する能力を養う」という三つにあると私は考える。
決して欲求を満たす場になってはいけない。
本来、創作の合評というものは作品を通して創作技術と言語化能力を鍛える場ではないかと思う。
作品を出した人間は他人に読んでもらうことで長所や改善点を見つけ、創作技術を磨く。そして読む側の人間は自分が感じたことを言語化することで自分の創作に活かすのである。
この関係性が成り立つ合評は改善点が多くなるが、その間に悪意は介在しないはずである。
なので、作品に対して改善点が多く出ても、それは成長の機転である捉えると精神衛生の面で良いと思われる。
問題は自分の欲求を満たそうとする人間がいる合評である。
ごくたまにだが、合評を戦いの場か何かと勘違いしてやたらと強い言葉で虎の首でも取ったように指摘する人間や、自分の作品の改善点を上げられたことが認められない自己承認欲求の塊みたいな人間が参加する回がある。
そんな自己欲求を満たしたいだけの輩の言葉には耳を貸さなくていい。
己の感性を信じられるように努めることだけを考えるべきである。
まとめ
私は何度か合評で苦い経験をしてきたが、正直なところやらなければよかったと思う合評はなかった。
どんな意見であれ、自分の作品を読んだ他人が善意によってくれた貴重なものばかりである。
その意見を私がどこまで活かせたかは定かではないが、この記事を読んだ創作者が良い合評をできることを願うばかりである。