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【小説】あかねいろー第2部ー 94)泣き虫
18時過ぎに笠原とともに部室に戻る。10本以上のオールメンの練習に参加して、しっかりと汗をかいた。そして、久々に俯瞰的に練習を見たような気がして、少し新鮮なも気持ちもあった。おかげで、一太のことで鬱々としていた気持ちは随分と後退した。
立ち止まって考えることは、多くの際に良い思考を生まない。
困った時、弱気な時、悩んだ時は、体も頭もどんどん動いたほうがいい。その方が、思考がポジティブに動きやすい性質の人たちがある程度いる。ラガーマンなどは、概ね皆そうだろう。そういう点で、新田は最高の後輩だ。ありがとうという言葉は、彼にこそかけないといけないのだけど、そういうことを口にできないのが、先輩面している僕らの情けないところか。
すでに部室には誰もいなくて、笠原はジャージのまま自転車で帰るということですぐに出て行った。その顔は、随分と晴れやかだった。
一太がいようがいまいが、俺らがやることは変わらない。いや、ただ、もっとやってやろうと思うだけ、彼はそんな趣旨のことを言い残して行った。
その通りだ。ラグビーは個人の競技ではない。フィールドに30名の選手が所狭しと集まって1つのボールを追いかける。どんなに大事なプレーヤーであっても、一人がいないことでチームが終わるということはあり得ない。その不在を、全力で埋めて、もっといいチームにしようとするか、嘆いて女々しいこと言っているか、だ。議論の余地などない。
よくわかっている。よくわかっている上で、僕はみぞおちのあたりで何かの引っ掛かりを感じている。
なんだろう。随分昔に感じたことがある。でも、最近はまるで触れていなかったところ。
帰り支度をしているところに、スマホの通知がなる。一太からのLINEだ。
”考えたんだけど、この1週間、このチームのキャプテンはお前がやるべきだと思う”
僕は文字通り、その画面を凝視する。眼球がスマホの画面にめり込んでしまうのではないかと思うくらいに。
”もともと、俺らの代は、お前がキャプテンのはずだったんだぜ。最後は、お前がやるべきだよ”
”小道じゃ無理。潰れる”
去年の11月の終わり、新チームのスタートにあたり、僕はキャプテンになることから逃げ出した。トッププレイヤーになりたいとか、自分は向いていないとか、なんとかかんとか理由をつけて、谷杉からのキャプテンへの打診を断った。その時点では、誰もが、僕が次の代、僕らの代のキャプテンになると思っていた。僕もそうなるだろうと思っていた。
だけど。
僕は逃げ出した。いつものように。人生のいくつかの節目でそうしてきたように、逃げ出した。
その後を一太が背負ってくれている。背負い続けながら、ここまできてくれた。
その彼が、最後の最後、いよいよゴールという手前でキャプテンでいることができなくなっている。少なくとも、次の試合にキャプテンとして出ることはできなくなっている。
どんなに無念だろう。どんなに悔しいだろう。
今、一太は何を思うのだろう。どこにいるのだろう。急に、彼のことを抱きしめたい気持ちに駆られる。
一人、小さな豆電球だけがついている部室で、一太のことを考える。そして、例によって涙ぐんでしまう。なんでだろう。なんで涙が出てしまうのだろう。そして、一度泣き始めてしまうと、どうしても止めることができなくなってしまった。2分、3分、どれくらいだろう。部室の右奥のPCの置いてる机の前の丸椅子に座り、スマホを握りしめながら、一人で嗚咽を止めることができなかった。
でも、その涙はとても温かった。
僕の中には、心のどこか、頭の右上の内側あたりに、ずっと黒い腫瘍のようなものがあり、それは常に僕の心に不吉な雲を送りつづてきた。僕はそれを感じることができたし、それを感じる限り、僕は僕であることに自信が持てなくなり、たくさんのことから逃げてきた。僕が僕である限り、何事もなすことはできない、そう、その黒い腫瘍は観念的に語りかけてきた。そして、僕の心を覆い支配してきた。
だけど、僕の涙はとても温かかった。
僕の心は、こんなに温かいんだ。
僕は、こんなに温かい存在なのだ。
僕が流す涙は、僕の体の外にだけではなく、体の中、そして心の中にも流れていく。そうして、僕の心を覆う、黒い霧、不吉な雨雲を溶かしていく。吸収し、流していく。僕の心から、どんどんと流れていく。僕は、それを感じることができる。涙が流れ続け、頬をつたい、それが膝にあたり、さらに足元へと落ちていく。さらには、地面を濡らしていく。
その温かさに、僕は安心する。
僕は理解する。
僕は僕でいいんだ。
いや、ちょっと違う。
僕は、みんながいる限り、僕でいいんだ。
一太がいなければ、俺がやる。俺がやるべきだ。もともと、そうなるはずだったんだ。
もう逃げない。
いや、逃げたくない。
絶対に。
”一太、やるよ”
”まかせろ”
”ありがとな”
短い文を3つ打つ。そして、ちょっと考える。本当に言いたいことはこれだ。
”絶対に、お前を花園に連れていくからな”
そう打ち込んで、もう、声を出さずにいられなくなる。スマホを置き、鼻水をしゃくり上げながら、声を上げて泣き始める。涙は水分のある限り流れ続け、おんおんという鳴き声が部室の中に響く。もう逃げない、逃げたくないんだ。そう自分に語りかける。