同じ景色を見ていても隣人は違う風景を感じている可能性

2024年10月31日、上野の国立西洋美術館で開催されている「モネ 睡蓮のとき」という展覧会を見てきました。
カンバスに描かれたたスイレンの連作などを見ていると、モネにはこのように見えているのだなと感じたときに、これは自分以外の全ての人に対して当てはまるものではないか?と考えました。
同じ景色を同じ時に見ているからといって、隣人は違う風景を感じているのではないか?そしてそれは当たり前のことなのではないか?
そのような違って当たり前という感覚はとても大事なのではないか?

「違って当たり前」という感覚の大切さについて考えてみます。

モネの絵画は、私たちが日常で目にする景色を、光や色の微細な変化をもってまるで異なる世界として描き出します。国立西洋美術館での「モネ 睡蓮のとき」展覧会で、この作品たちを目の当たりにすると、モネにはこう見えていたのだと感じると同時に、ふと、隣人も同じ風景を違うように見ているのではないかという思いがよぎるでしょう。これは実際の私たちの感覚に根差した事実なのかもしれません。モネが異なる光の瞬間や雰囲気を捉えて「同じ景色でもこう見える」と表現したように、わたしたち一人ひとりも各々の感覚によって異なる風景を感じ取っている可能性があるからです。

考えてみれば、二人の人間が同じ場所で同じものを見ていたとしても、それぞれの感じ方は異なります。ある人は美しさを見出し、別の人は悲しみを感じるかもしれません。さらに、それらの違いは人の価値観や経験だけでなく、その瞬間の心理状態や周囲の影響も含む、無数の要素に左右されているでしょう。例えば、モネが睡蓮の池を描くとき、彼が求めたのはその瞬間の光の表情であり、時にはぼんやりと、時には鋭く、色や形が変わりゆく一瞬一瞬に過ぎません。このように、私たちが見ているものの「本当の姿」は一つに固定されたものではなく、私たちの感覚がそれをどのように捉えるかによって変わるのです。

この「違って当たり前」という感覚を受け入れることは、私たちの人間関係においても重要です。なぜなら、他者と意見や感じ方が異なることを自然に受け入れられれば、理解し合おうとする姿勢も持ちやすくなるからです。同じ風景を共有しながらも、異なる視点を持つことで新たな発見が生まれ、世界がより豊かに感じられるのです。モネの睡蓮が「こうも見える」「ああも見える」と何度も描かれたように、人間関係や人生の出来事もまた、多様な視点からの解釈が可能です。モネが光や色彩の無限の変化を追求したように、私たちも他者の異なる見方を通じて、世界の奥深さを知ることができるのではないでしょうか。

結局のところ、「同じ景色を見ていても隣人は違う風景を感じている」という感覚を持つことが、私たちが共に生きる社会において大切なのは、互いの違いを豊かさとして捉え、他者とより深く関わるためです。この仮説が心に残るとき、私たちは誰もがそれぞれ異なる視点から世界を見ていること、そしてその違いこそが人生を豊かにする要素であることに気づかされます。

いいなと思ったら応援しよう!