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【育児書 読書記録】続 子どもへのまなざし 佐々木正美 ②

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前回の記事では、この本の概要、子どもへの要求に応じるスタンス、それらを読んで自身の仕事観や幼少期から大人になる中で感じていたことを重ね合わせた内容を記しました。

今回は、子どもにどのようにして思いやりの心を育てると良いかといった内容を読んだ所感を、一つは現代の少子化や女性の社会進出と子どもの望みについて、もう一つは自分自身のアイデンティティを確立する上で強く感じたことを読みながら思い出したので、記していきたいと思います。


思いやりの心の土壌

「思いやりを持ってほしい」という願いに思う事

子どもを持つと、おそらく多くの、いやほとんどの大人たちは「思いやりを持った子どもに育ってほしい」と願うかと思います。
私自身もそれは例に漏れず、思います。同時に、できる限り傷つかず(成長に必要なものではない、悪意を持ったものに対して)育ってほしいとも思います。
しかし、世の中のニュースでは「いじめ」「不登校」などがニュースで取り沙汰されていますし、それどころか大人の世界でも「パワハラ」「ハラスメント」といった言葉をよく聞きます。
もっと大きなところで言うと、国と国が戦争をしています。今この時代、この瞬間も戦争が行われています。

なぜなんでしょうかね。
おそらく多くの人々は、「思いやりを持った子どもを育てたい」と願い、「いじめは良くない」と思い、「平和が良い」と祈っているはずだと思うんです。それがどうしてこんなに難しいのでしょうかね。

イギリス留学時、フランスからの留学生との会話

余談となりますが、戦争というワールドワイドな話題から、少し脱線させて下さい。

高校時代半月程、学校からサマースクールとして希望者を募りイギリス留学をさせて頂く機会を頂きました。
語学留学ですので、ホストファミリーの家でホームステイしながら、普段は学校として使われている夏休み中の現地の学校に、英語圏以外の各国から集まった学生達が学びにやってくるというものです。

そこで、同じクラスになったフランス人の留学生と、授業のテーマで軍隊を持つことについての意見交換を行いました。

私自身は日本人として、戦争は行わないという法律があること、自衛隊といった組織があるが軍事組織ではなく自国を守ったり災害時のレスキューにおいて活躍していること、そして現在軍事的に使われている技術や知識等は自然災害の多い日本人としての感覚としては、軍事的に使うというよりも、そういった自然との共存や対峙の上で人々が安心して安全に生活するためにこそ活用するべきだと感じている。
…みたいなことを拙い英語で話したように記憶しています。

それに対してフランスの学生さんが話された内容がとても印象に残っています。
私の拙い英語力で理解した内容ですので、もし語弊があると申し訳ないのですが、やり取りの中で私が認識したのはこういった内容でした。

地続きのヨーロッパでは、侵攻や侵略を互いに繰り返す中で今成り立っている国境であり、国であるのだと。
現在はEUといった形で均衡が保たれているが、元来人間は欲深いので、平和に対しての心がけの一つとして、軍隊を持つこと、強い軍事力を持つことが抑止力になるのだと。

この意見にはなるほどと思いました。
それは自分の考えを覆すものではありませんでしたが、自然災害が多く海に囲まれている(地続きに国境があるわけではない)日本の感覚のみを持っていたのですが、地続きの国としての歴史と考え方があるのだと。
まさに自分自身の視野が広がったのを実感したやり取りでした。

もちろん、未来を担う私達には、そういった国家観を持つ国があるということも知った上で、なお平和を希求していく必要があると思うのですが。


こういったことを1対1の人間関係などに落とし込むと、軍事力ではありませんが、ある種「きちんとしていること」は他者の攻撃や悪意から自分を守る一つの手段なのかもしれないな、と思ったりします。
あらゆるリスクを考えて避けることはもちろんですが、例えば清潔な身なりをすること、丁寧な言葉遣いをすること、美しい姿勢をしていること、知識を付ける事。
そして自分自身と周りの人たちを適切に大切にしていることは、周囲からの悪意に対して抑止力になるのかもしれないな、と感覚的に思います。

感謝と尊敬の気持ちを持つこと

本の話に戻ります。

この本の中で思いやりを持った子どもに育てるために大切なこととして「思いやりのある人に出会うこと」「思いやりのある人の中で育つこと」「自分が思いやりを受けながら育てられること」が挙げられています。
そして、思いやりというのは「感謝をすること」「尊敬の気持ちを持つこと」に起源しているのだと。

確かにお手本が無ければ「思いやりを持つ」ことがどういった行動に現れ、それがどのような感情の元に出ているのか理解することは難しいことだなと感じます。

競争社会の弊害

しかし、佐々木先生は近年お手本にするといいような人や尊敬すべき人に出会ったとしても、善望や嫉妬の想いを持つことが多くなってきていることを懸念を示されています。

本の中で、自分はない素晴らしいものを持った人と出会った時に、素直に「〇〇さんはすごいな、すばらしいな」という気持ちを持つことが、「仲良くなりたい」「友達になりたい」という気持ちに繋がっていくことはとても大切なことだと語られています。
しかし、現在は大人だけでなく子どもまでも競争原理の中で育てられてしまうことから、そういった思いが持てなくなる。
なぜなら自分より優れた子がいること=その分自分の存在価値や評価が下がってしまうことになるため、尊敬やすごいなという気持ちだけでは済まなくなってしまう。
そして自分より劣った子を攻撃することでストレスを解消しようとするようになると。


これは先ほどの国同士の話でもそうだな、と感じます。
そして大人同士の人間関係においてもそうだよな、と。

女性活躍が叫ばれる社会の申し子

これを読んで、今の女性活躍が叫ばれる社会のことを想いました。

女性が社会で活躍していくためには、もちろん全てではありませんがやはりある程度の競争社会や競争原理に女性も挑んでいくことが必要になるかと思います。

私自身、高校受験、大学受験を乗り越え、就職活動を経て、社会人としての今があります。
社会人として働く中でも、同僚との比較にさらされることもあれば、経済的な結果、あるいは業務としての結果等が求められます。

人はそれぞれ皆に価値があるという事は頭では分かっているけれど、仕事を進める上で仕事の上での集団で比較した時に自分は足を引っ張っていないだろうか、自分に価値はあるのだろうか、と不安に思う気持ちを持ったこともあります。
それは新人時代のみでなく、5年10年経ってもです。

従事している仕事や職場は、私の目線から見ると競争はそこまで求められず、ただ自己研鑽やある程度のノルマ達成が求められるくらいであるため、ある意味そこさえ達成できれば自分自身がより良いと思う仕事をできる自由がある職種であると感じています。

それでも、集団の中では無意識で比較してしまう自分が出てくるのも確かです。
後に述べますが、そういった気持ち、即ち競争原理に追い詰められた時期がありました。

出産を経て感じた変化

私は女性の社会進出が叫ばれる平成の時代に子ども時代から社会人になるまでを過ごしてきた世代です。

当たり前のように大人たちが叫ぶ通り、大学受験を突破し、夢である仕事に就きました。
そしてこれからも当たり前のように働きながら子どもを育てるのだと思っていました。
出産直前まで「先手必勝!」と言わんばかりに保活を行い、早く社会に復帰しないと!と思っていました。
仕事をしている時によく見ていたYoutubeは「マコなり社長」とか、本でも「効率性とは」みたいな本とか。いかに効率よく物事を進めるか、損得勘定で得するかを大切にしていました。
利益を上げる、低いコストや力で結果を出すには必要な考え方だったなと思います。

しかし出産して考え方が180度というか、もはや別次元に変わりました。
効率とか計画とか、損得とか、そういったものに重きを置く価値観は、赤ちゃんと生活する中では全く役に立たない。笑
効率よく家事と育児をするんだー!と意気込んでいた自分はいずこへ。
想像していた以上にというか、想像できていなかった程「動物的な」日々です。
赤ちゃんと一緒に丸まって寝て、赤ちゃんと一緒に起きて授乳して。
自分の食事排泄清潔、赤ちゃんの食事排泄清潔、それさえすればOKというか、それだけをするような毎日です。

3か月が経ったくらいの頃から色々と自分と赤ちゃんだけの世界から外に意識が向くようになってきましたが、今見る社会や仕事への感覚は、出産前のそれとはまったく異なります。

多分、周囲の人から見たら「あなた出産前はそんなこと言ってなかったじゃない」と思われるかもしれません。
よく聞く、産休育休前に会社で話していた今後の計画と、産後の女性職員の希望が変わることに対して「話が違う」「社会人なんだから言ってたことは守らないと」みたいな話、私もどちらかというと妊娠出産は子どもの体質などもあり読めないことも多いのではと思いつつも、「話したことは守らないと」と思っていましたが、経験してみて自分でも驚くほど価値観が変わりました。

「ママになっても、ママじゃない自分も大切に」とか、「ママである自分だけが自分ではない」と最近よく聞きます。
そういう考えは否定しないし、自分もそう思っていました。
でも、出産を経た今の自分は「ママとしての自分を全う、堪能したい」という気持ちが大きいです。

受験や学生時代を経て色々思うところもあり、厳しい競争が求められる所ではない位置に今いると感じていますが、中には同じ世代で厳しい競争を今もなお走っている人も多いと思います。

もちろん競争が社会を進化させていくことも確かだと思います。

ただ、極端な競争原理は、子どもを育てる側の人間にとってあまりさらされていたくない感覚といいますか、せめて幼少期や人としての土台を作る時期はゆったりとした気持ちで子どもを受け止めていたいし、自分自身もそういったストレスにさらされたくないな、と感じています。

不器用な私は、そういった価値観に触れていると、同じ価値観を家庭の中にも持ち込んでしまいそうで、それが怖いんです。
だって、産後1,2カ月の間、今が産休育休中であることを頭では分かっているのに、どこかで無性に「世間に置いて行かれる焦り」を感じてしまっていて、そこからやっと180度変わった意識を受け止められたくらいです。
切り替え受け止めるのに2カ月かかったようなことを、これから私は分や時間単位で切り替えられるのだろうか…という怖さがあるんです。

自分を大切にするということ

~私の場合~思春期の気付き 真にやさしいとは

私は下の兄弟がおり、家の中では横柄だったかもしれませんが外では比較的「優しいね」と言われることが多かったです。
気が弱かったのもあるかもしれません。
人に優しくすることで攻撃から逃れようとしていたところもあるかもしれません。
また、本が好きで、兄弟の一番上で、といった背景から大人たちが良しとすることをそのままレール通りに生きようとしていた部分もあったのかもしれません。

そのうち「優しい」ことが自分のアイデンティティになってきました。
努めて「優しくあろう」と努力をするようになりました。
でも、思春期になって「あなたは優しいから好き」と言ってくれる人に対して何故か嫌悪感と言うと言いすぎですが、あまり嬉しくない気持ちが大きくなってきました。

思春期に、自分自身が見返りを求めて、というか仲間外れになりたくなくて、その相手に優しくなろうと努力をしていた時期がありました。
でもその人たちは私の方に来てくれることや仲良くなってくれることはなかった。
勘違いかもしれないけれど、少しだけ、その人たちの振る舞いから悪意や嘲笑、つまらない(あるいは空気が読めない)私への煩わしさも感じていました。

そんな人たちのところに行かなくてよかったんじゃないかと思うのですが、教室の中にそこしか居場所がなかったから、そこを離れると孤独だと思ってすがりたかったんだと思います。

孤独を感じて、居場所のなさを感じて、その人たちに対して、あるいは無条件に優しく振舞うことはできないな、と感じました。限界というか。
救ってくれたのは、変わらず私のことを好きでいてくれた教室の外の友人達とBUMPの曲でした。

その時に一つ気付いたことがあります。
自分が傷ついてまで守ろうとしていたのは、それは本当の意味では自分自身に対して優しくないことだったんだと。
「真のやさしさ」というのは、ただ優しく振舞うことや相手の求めていることをするだけではなくて、まず基本に自分自身を大切に、自分に優しくしていられないと、生み出せないし相手にまっすぐな目で向き合えないのだと。

そして、自分が仲良くなりたい相手であっても、相手が望まない場合もあって、そこに悪意が見えるのであれば静かに離れたら良いのだと。

自分にとってはこの時の孤独はとても怖いことだったので、少し外へ向かう気持ちがガチガチに凝り固まりましたが、自分に優しくいられないと他人にも優しくあれないというのは、一つの大きな気付きでした。

~私の場合~青年期の気付き 真に自分を大切にするとは

受験を経て職業に向けての専門学校に入った私は、勉強に邁進していましたが、途中で「あれ?これって本当に自分がやりたいことなのかな?」と疑問を持ちそれ以上前に進めない時期に遭遇しました。

下調べ不足と指摘されるとそれまでなのですが、思っていた以上にハードな内容と、精神的にも自分の欠点や特性や性格や癖と向き合い続けること、周囲と比較されること(ある種の競争状態)があまりにも辛くて、結局留年しました。
(級友達は皆温かい人たちでしたが、多くの実習などもあり、ほぼ常時、教員や指導者からの評価にさらされ続ける環境でした)

その時の孤独感は思春期の孤独感を上回るものでした。もはや病んでいました。
自分に優しくあろうと思っても、自分の希望を叶えて向かった進路でそういう状況になっている時点で、もはや自信もボロボロでした。
成績も落ちてしまい、今考えたらアカハラになりますが(笑)とある教諭から「その学校からの生徒はみんな変な奴ばかりだった。おまえもか」みたいなことを言われて、お世話になった母校に顔向けできない絶望感にも苛まれました。
自分が信じられない。
でも、専門の学校に進んでいるので今更別の学校や進路に行くなんてできない。

思春期の孤独を経て、自分から人と仲良くなりに行くことや相談することに対してギュッと縮こまってしまった自分がおり、自分で決めたことには自分で責任を取れば良いと思っていました。
誰にも相談せず自分で解決すれば、誰にも迷惑かけずに生きれば良いのだと思っていました。

しかし違いました。
ここから回復できたのは、これもまた学外の友人達とただただ鍋を囲んだり川辺を歩いたりして遊んだことや、その中でポツリとこんなことで悩んでるんだよね、と言えたことでした。

自分を大切にするためには、人の中にいないと自分を大切にできないんだということを感じたのが、ここで得た一つの大きな気付きでした。

語られる「自分を大切にするということ」

本の中で、「自分が本当に幸せだったら、相手の不幸を一緒に悲しむことができるし、相手の喜びを自分の喜びにすることもできる」はずであること、そのためには自分自身が幸せでいなければならないことが述べられています。

思春期から青年期に自分が涙に染まりながら痛く強く感じ取った気付きが1つ裏付けされたような心地がして、やはりそうだよなと頷きながら、同時にもっと早く知りたかったなという気持ちや、ほっとする気持ちがない交ぜになったような、でもとても静かで厳かで穏やかな気持ちでこの部分を読んでいました。

結び

色々と脱線したり、読んでいて自分の過去の中での大きな転換点がよみがえり、長くなってしまいました。
でも1冊の本を読む中でこれだけ自分の生き方や価値観の、すごく柔らかいところを刺激される経験ってなかなか貴重なものだと思うのです。
だからこうして残せるツールがある事に感謝。

読んでくれる(かもしれない)人がいることで、整理してまとめようと思える。
だから読んで下さったあなたにも感謝です。

この本は2000年代と私が子どもの頃に書かれた本ですが、読んでいて当時の未来だった今を見透かされている、むしろ佐々木先生には見えていたんだと思わざるを得ないこともたくさんあったので、それもまた書けたら。

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