今日会いに行きたい!気になる土偶#096十日町市博物館
長い両手を大きく広げ、天を仰ぐ。
聖職者が聴衆の前で祝祷を捧げている…かのように。
「手をあげる土偶」
この土偶が作られたのは、縄文時代が最も繁栄した約5000年前。気候が安定し食料が豊富になったことで人口が増え、多くの集落が営まれました。
それに伴って土偶も各地で多く作られるようになり、土偶の形にも変化が表れます。
もともと土偶はボディを重視して作られましたが、そこへ小さな頭や小さな手が付き始めます。
やがて目鼻口を表現した顔のある頭部が作られ、手足も人のように象られるようになります。
特にこのバンザイをしているようなポーズの土偶は、中部高地(山梨~長野県)から関東で多く作られました。
その頃の中部高地(山梨~長野県)は日本の中心地であったと考えられ、多くの集落が出来、人々の往来が活発になっていきました。
そういった中で平和で安定した営みを続けるには、共通の認識を持ち、人々が心を1つにすることが大切になってきます。
大きな集落では真ん中に広場が作られ、周辺からも多くの人々が集まり、祈りをささげたり、マツリが行われるようになります。
そこに登場したのが、天を仰ぐような「手をあげる土偶」です。
大勢の聴衆を前に体を使って表現する、今でいうとノンバーバルコミュニケーション(言語以外でコミュニケーションをとる)で、人々に意思を伝えているようです。
縄文時代に言葉があったか、なかったか?専門家の間でも意見が分かれていますが、人間の能力を考えるとある程度はあったのではないかと思います。
それでも大勢に耳を傾けさせ、心を1つにさせるには、言葉を補完するなにかが必要になってきます。
そこで一目で意思を伝えるために、このような土偶を用いたと考えられそうです。
こうして人々の心を掴むツールとなった土偶は、関東で多く作られるようになり、その情報はここ新潟の地へも伝わってきたようです。
それにしても長い手です!最長級ではないでしょうか。
こうやって見ると、お隣の小さな土偶と一緒にラジオ体操をしているようにも見えますね。
*参考資料
土偶美術館 小川忠博/原田昌幸 平凡社
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