土偶は「カオ」のない人形だった ~土偶のつぶやき~
いつの時代にも、世界のあらゆる場所で作られてきた「人形」は「人形」とも読みます。
その個々のルーツを辿ることがあっても、「人形」である意味を思い巡らせることはないように思えます。
先日訪れたのは、「横浜人形の家」で開催中の
『ひとはなぜ〝ひとがた〟をつくるのか』展。
〝ひとがた〟の多彩で豊かなフォルムから、それを生み出した精神性に触れるという試みです。
展示されているのは、アフリカや中南米そして日本、古今東西、多種多様な〝ひとがた〟。
抱きしめたくなるような、ふわふわのフォルムの人形がいるかと思えば、冷たい金属のグロテスクな人形、儚く消え入りそうな素材の人形等々…。
その中には縄文時代の土偶の姿も。
これら土偶の定義は「人形をした土製品」。
ですが、左の土偶には脚がなく、*右の土偶には体がありません。
そして土偶の祖先を辿ってみると、そこには〝顔〟がありません。
つまり顔なしの「人形」が土偶の始まりだったのです。
その最古の土偶から数千年後。
今から約7000年前ほどに、ようやく顔らしきものが作られるようになりました。それがやがて超個性的な遮光器土偶へと変化していったのです。
祈りの道具として使われていた土偶は、顔や手足よりもボディに重きを置いていたようです。
そうであれば当時の「人形」は、顔や手足のある〝人間の形〟ではなく、人間の体部に宿る〝精神性を表す形〟として作られたのかもしれません。
さて、展覧会の『ひとはなぜ〝ひとがた〟をつくるのか』ですが、人形作りの経験のない私には答えは見つかりませんでした。
ただ、心のうちを投影するにも、見る側がその内面を感じとることができるのも、「人形」であることが大切であるように感じました。
そう思うと、傍らにある人形にも、
誰かの思いが宿っているような…⁉
横浜人形の家 https://www.doll-museum.jp/
*この「顔」は、土偶もしくは土器についていた顔面把手であると考えられています。
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