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始まりは私…ではない、かな?|土偶のおはなし

もうすぐ、ひな祭り
人形のんぎょうは顔が命』
いつだかの雛人形のCMのフレーズが、今年も頭に浮かんできました。

この風習〝女の子の健やかな成長と幸せを願う〟…ひな人形が一般に広まったのは、江戸時代と言われています。
当時は藁や布や紙といった身近にあるもので作られ、男雛と女雛の一対の親王飾りが一般的であったようです。


ずっと時代を遡ると、
縄文時代には祈りの道具であったと言われる土偶があり、これが日本で一番古い人形と言われています。

この土偶のルーツは?というと…はっきりとは分かっていませんが、石偶せきぐうが関係しているのではないかという説があります。


土偶の出現は、縄文時代草創期の今から約13,000年前。そのもう少し前にはこんな石偶せきぐうが存在していました。

国立歴史民俗博物館蔵


これは約14,500年前の石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)です。

一見どこにでもある石…のようにも見えますが、線刻礫せんこくれきと言われる、鋭い石器などで絵が描がかれた石です。
それぞれ高さは4~5㎝、幅は2~3㎝、厚さは0.5㎝、その小さな薄い石に細く傷をつけたような絵が描かれています。


これら石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)の特徴とは…
〝平たい小さな自然の石を人の形に見立てて、表面に髪、乳房(あるものとないものがある)、腰蓑、裏面に肛門を刻んで人を表現している〟そうです。


近くで目を凝らして見ても、石に描かれた線は細く薄く、説明のように描かれているのが分かりづらいのですが…。
細い数ある線は〝人の体〟を描いているとのことです。


同じような石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)は他では見つかっておらず、今のところ日本人が描いた最初の女性像とされています。
土偶と同じように、祈りの道具、信仰の対象であっただろうと言われています。


石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)と同じように石で作られたものに岩偶がんぐうがあります。
これは主に縄文前期晩期に作られたと考えられるものです。

これは縄文前期~中期の岩偶がんぐう
抽象的ではありますが、頭らしき形と深く刻まれた線やお腹あたりの窪みが、なんとなく人を表しているように思えますね。

三内丸山遺跡出土


こちらも同時代もの。
うっすらと目、鼻、口が描かれていて、人形であることが分かります。

三内丸山遺跡出土


同時期に作られたものでも、頭、手がかなり象られたものも。

三内丸山遺跡出土


そして後期になると、土偶と見分けがつかない造形のものが登場します。

青森県南部町小向出土
 東京国立博物館蔵


このように、土偶が作られるようになっても、岩偶がんぐうが作られています。この傾向は全国に見られ、それぞれ地域独自の形をしているそうです。
上の岩偶がんぐうは、どこか遮光器土偶にも似ているようにも思えますね。


同じ石で作られた石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)岩偶がんぐう関係、そして土偶との関係は?

石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)土偶のルーツでは?ということも囁かれてはいますが、残念ながら石偶せきぐう(線刻礫せんこくれき)は他に例がなく、岩偶がんぐうも圧倒的に数が少ないことで、土偶との関係性を考察するには難しいようです。

縄文時代には、でわざわざ石皿模したものを作っている例もあります。
で作られたものと、で作られたもの、その材料の決定的な違いは何かを意味するのでしょうか。




江戸時代のみならず、人形は身近なもので作られてきました。縄文時代にもきっと草木などで作られた人形があったはずですね。

どこかの湿地で腐らずい眠っていないかな?
土偶のルーツが分かる日がくるでしょうか?



*参考資料
縄文土偶ガイドブック 三上徹也 新泉社
三内丸山遺跡ガイドブック

最後までお読みくださり有難うございました。




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