実物がなくとも圧倒的な見応え!/「ハニワと土偶の近代」展 :東京国立近代美術館
ハニワや土偶がどのように知られるようになったのか。遺物としてだけでなく、アートとしての系譜を辿る展覧会が始まりました。
ハニワと土偶にフォーカスしていますが、なんと本物の埴輪はわずか2体、土偶の展示はありません。
ですが、考古スケッチから絵画、写真、映像作品、キャラクター、文献資料など多岐にわたる作品には、見逃せない逸品も多く展示されています。
時代を追っての表現を、ほんの一部ですが紹介します。
【戦前】 ハニワは「万世一系」の歴史の象徴、土偶は異民族のもの
江戸時代までのハニワや土偶は、主に古物を蒐集した「好古家」と呼ばれた一部の人たちだけに知られていました。
明治となり、政府は天皇の系譜を表すものとして陵墓の調査を重要とし、古墳から出土したハニワなどの出土品のうち優れたものは「皇室の財産」としました。
そうした背景の中で学術的調査も進み、一流の画家による記録や精緻な描写が資料として役立つようになります。
この頃「土偶」は、日本人ではない異民族の造形と考えられていました。
そのような認識のもとで、出土品の実物大のスケッチや詳細な記録がまとめられました。
明治政府は考古学標本をシカゴ万博(1893年)に出品するなど、国内外へ広へ知らしめる体制を敷いていました。
国内では鉄道網の広がりや街の開発に伴って、全国各地で埋蔵物の発見が多くなります。
政府は画家たちに、ハニワなどをモチーフにして古代のイメージを創出することを促しました。
ハニワの顔が「日本人の理想」として、戦意高揚や軍事教育にも使役されていきました。
ハニワは1940年前後、皇記2600年の奉祝記念行事や、開催予定だったオリンピックのポスターなどに使われ、ハニワ自体の「美」にも注目が集まりはじめます。
これは考古趣味雑誌の「ハニワ特集」。ハニワを陳列する骨董屋の広告も掲載されているそうです。
【戦後】歴史観が一転し、教科書の冒頭には、古代の神々の物語に代わって石器や土偶、ハニワが登場
それまで埋蔵物が収集されていた皇室博物館は国立博物館となり、それらは「国民の財産」となります。
「私たち」という言葉が、埋蔵物が国民の共通の財産であることを表しているようです。
多くのアーティストたちが、原始的なものとして考古遺物に注目し、具象、抽象問わずに様々な作品が生まれていきます。
縄文土器に「美」を見つけた岡本太郎は、ハニワや土偶をモチーフにした造形を多く生み出しました。この作品は3部作で、1つは彼の父親の「墓碑」になっています。
考古物であり美術品でもある、という認識が広まって、様々な視点から語られることが多くなっていきます。
奥会津出身の版画家・斎藤清は、ハニワや土偶の作品を多く残しています。
写真家・土門拳も被写体として、ハニワや土偶のリアリティを追求しました。
新潟国体の聖火台はなんと「火焔型土器」!縄文時代の認識が広まっていきます。
そして特撮や漫画、アニメといったサブカルチャーの分野にも登場し始め、ますます身近な存在へとなっていきます。
大映の特撮映画に登場する『大魔神』。
国宝ハニワ「挂甲の武人」がモデルとされています。
ハニワ、土偶の切手も販売されました。
「和製ポップ・アート」の先駆けとして知られるタイガー立石の作品。逆さ富士と土偶たち⁈
1983年〜89年のNHK教育テレビの幼児向け番組『おーい!はに丸』の映像が紹介されています。これは会場外のフォトスポット。
企画展名「ハニワと土偶の…」は時代の順番が逆なのでは?
縄文時代の土偶と、古墳時代のハニワ。ハニワはすでに戦前には注目を集め、後に土偶が一般に知られるようになったという歴史から、企画展名がこの順番になったようです。
単なる資料や作品としてではなく、社会背景によって変化していく見方や表現方法、またアートとしてフォーカスされていく過程も大変興味深いものでした。
ちょっと違った角度から見るハニワと土偶は、その「美」や「面白さ」の可能性が広がっていくようです。
*前期・後期の展示入れ替えがありますので、上記の展示があるとは限りません。
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