世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 /土色の世界になにがある? キウス周堤墓群
北の玄関口 千歳空港、
まるでレジャーランドのように
多くの笑顔や会話が飛び交っています。
そこから僅か約10㎞の落葉広葉樹林の中に、
ひっそりと9つの「土の窪み」があることを、
どのくらいの人が知っているでしょうか?
北海道縄文旅の続き…
訪れたのは、世界遺産 史跡 『キウス周堤墓群』。
千歳市のその遺跡までは公共通機関がなく、最寄りのJR千歳駅からタクシーで向かうことに。駅からは15分程度とのこと。
のんてり「キウス周堤墓群までお願いします。」
運転手さん「………。」
のんてり「世界遺産のキウス周堤墓群へ行きたいのですが。」
この土地でタクシー歴15年という運転手さんに、Googleマップで場所を示すと、
運転手さん「そういえばのぼりが立っていたかな、野菜かなんかを売っているかと思っていた」
のんてり「きっとそこです、お願いします。(えっ…⁈)」
この遺跡がこんなにも周知されていないことにショック。
世界遺産登録されたのは2年前の2021年7月。
地元は沸いていたのでは?と思いつつ、そこにずっとある遺跡は地元の人にとっては特別ではないのかも、と思ったり。
駅から少し離れると、
畑や林と、どこまでも平坦な土地、その中を真っすぐ伸びる道、
ああ北海道だなあ、と感じる景色が続きます。
やがて林の一角の『キウス周堤墓群』に到着しました。
ところで「周堤墓」とはあまり聞きなれない言葉ですよね。
これは今から約3200年前頃に北海道の道央~道東にかけて作られた集団墓、つまり墓地のことです。
もちろん縄文時代の墓地は特段珍しいものではありませんが、その特徴的な形と作られ方が注目される理由となっています。
その特徴とは…
地面に円形の大きな穴を掘り(竪穴)、
その掘った土を「ドーナツのように廻りに盛る(周堤)」。
そしてその竪穴や周堤に、いくつもの「小さな土壙(土の墓)」を掘る。そして人を葬る。
「本州では見られない形」の墓地は、北海道でもこの地域に集中しているといいます。ここでは9個の周堤墓がまるで繋がっているかのように作られています。
今日最初の訪問客の私、
早速ボランティアガイドの方と二人で林の中へと向かいます。
「キウス」とはアイヌ語の「キ、ウㇱ」=「カヤの群生する所」という意味が由来だと考えられています。
現在は干拓されその面影は見られませんが、もともとは湖沼などの湿地地帯が広がっていたそうです。縄文時代には茅が広がる風景が見られたのかもしれません。
ここでは「縄文人の歩いたそのままを体感してほしい」という思いから、大部分が自然のまま残されています。
そんなことで、ちょっと肌寒いこの日も蚊や虫たちが飛び回っていて、ガイダンス施設で貸してくれた虫よけスプレーが大活躍です。
やがて見えてきたのは盛り上がった土手状の場所。これが掘った穴の土をドーナツ状に盛った部分です。
離れて全景を見ると、すり鉢状に掘った大きな穴の様子が分かります。
現在は草木などもありますが、当時は「土だけ」の状態でした。
縄文時代の集団墓というと、墓の上に「石」が置いている「配石遺構」と呼ばれるものが一般的です。
でもここでは、そのような「石」は全く見られず、「土の窪みと土手」があるだけなのです。
木の板を置いて保護しているのは、縄文人が「通路としていた道」。
さらにドーナツ状に盛られた部分は一部が途切れていて、そこは「土の窪みへ入るための侵入口」として使われていたといいます。
縄文人は林の中の「決められた道」を通り、それぞれの「土の窪みの侵入口」を使うというルールを守りながら、次々と9個の周堤墓を作っていきました。
このキウス周堤墓群の特徴は、直径50mを超えるその大きさにもあります。
重機はおろか金属もない縄文時代に、木や石の道具だけで土を掘る「大規模土木工事」がおこなわれていたのです。
その「大規模土木工事」は、周堤墓群から約300mの川のほとりにある「キウス4遺跡に住む人々」がおこなっていました。
その遺跡はサケやシカなどが豊富で、人々が何世代にもわたって住んでいた豊かなムラでした。
周堤墓作りに明確なルールがあったように、ムラ社会には決まり事や慣習などがあり、人々はそれを守ることで安定した生活を手に入れていたようです。
周堤墓にある墓の下にはベンガラが撒かれるなど、独特の慣習があったとも考えられています。※ベンガラ︓鉱物由来の染料
また遺跡やその周辺からは多くの土器や祈りの道具が見つかっています。その中には、決して片手間で作ることのできない「卓越した技術」を必要とするものもあることから、「労働が分業で行われた」という可能性があるようです。
林の中の9つの「土の窪み」には多くの縄文人が眠っています。
その人々は私たちが想像する〝各々で狩猟や採集をし、時に土器を作る〟縄文的な生活ではなく、ムラという社会の中で、一定の規律に従って共同作業を行い、得意なことを仕事にしていた…と想像してもよいのかもしれません。
きっとそこには、千歳空港に集う人と同じように多くの笑顔や会話が飛び交っていたのでしょうね。
前回の記事はこちら。
*参考資料
北の縄文人の祭儀場 キウス周堤墓群 大谷敏三 新泉社
最後までお読みくださりありがとうございました☆彡