麻雀と自分の話

麻雀を知ったのは4歳くらいの時に父親のワンダースワンのゲームを勝手に起動した時だ。
ドット絵のおっさん達がドスの利いた声で「ロン」や「ツモ」と発する幼稚園児には渋すぎるゲームであった。

最初に気づいたのは、「ロン」や「ツモ」が勝ちであること、そして自分がそれらの発声を一度もしていなかったことである。

子どもながらに綺麗な感じに仕上げればそのチャンスが訪れるのだな、という気づきまでは得た気がするがその後の記憶は無い。

次に麻雀と出会ったのはゲームボーイアドバンスで発売された麻雀ゲームである。
小学校低学年か中学年くらいだった気がする。
ワンダースワンのような渋い絵柄ではなく、当時で言うところのベイブレードみたいな今風の絵と、どれを切るのが良いかというアシスト付きの親切なゲームであった。

俺はアシストに従っていくとなんか仕上がってくーみたいな感じで最初の方こそ楽しんでいたが、早々に飽きてやめてしまった。

舞台は中学三年、長崎の修学旅行に飛ぶ、貧乏性の俺は試食を食い荒らしたが、とある店のカステラを食った時その場で吐いてしまった。チーズが入っていたからだ。

いろいろな場所を散策した記憶はあるが、インプットされているのはその事実だけで、どうせ早く地元に帰りたいとでも思っていたのだろう。
一人の時間が無い、というのはそれだけで大きなストレスだった。

部屋決めで悪友二人との三人部屋を確保した俺たちは誰が言うでもなく賭けポーカーを始めた。
役ごとの勝ち額など細かいルールをその場で作り、完璧な賭場を作り上げたのも束の間、巡回で訪れた担任に賭けポーカーがバレてその場で土下座された。
土下座させられたのではなく、土下座された。

「何やっても良いから賭けることだけはやめてくれ」
と涙を浮かべながら訴えてきたのだ。
あまり感情を表に出すタイプの先生ではなかったのでかなり驚いたのを覚えているし、何より悪いことをしている生徒を前に先生が土下座しながら嘆願している、というのは異質な光景だった。

しょんぼりした顔で俺たちが分かりました、と言うと先生は部屋を出て行った。
次に部屋に響いた声は"よっしゃ続きやるかー"であった。

その日は1万円もの大金を手にし、土産は振るったが全員徹夜で死んだ目をしていた。

そんな生粋のギャンブルの素質を持った俺は高3の頃に賭けポーカーの時の一人に誘われ雀荘に初めて行くことになる。
そいつは工業高校で高1から麻雀に手を染めていたらしく、神奈川のとある雀荘が高校生でも行けるって話だった。

その雀荘は生徒証を見せると学割で安くなった。生徒証は高校生であることを証明するものだから今考えるとちょっとシュールだ。

その雀荘には中国人が入り浸っており、どう考えてもタバコの煙ではないヤバいものを吸いながら甲高い声を上げていた。

冷蔵庫から2Lペットボトルを勝手に出して飲むという常に寝ている店主に対して合理的なシステムが確立していて、朝方になると店には客しか居なくなるので、場代は雀卓に置いて帰る、という昭和の趣漂う雀荘であった。

ともかく、それまでにも家族でたまーに三人麻雀をしていたくらいの俺は、どうせ打つならボコボコにするか、と思い、この時初めて麻雀について考えた。
バイト中は頭の中で牌姿を広げて効率的な打ち方を考え続けた。

結局、セット自体は30回くらいやったが負けたのは3,4回ほどしかないくらいの勝ち頭になった。
正直、負ける気がしなかった。

その頃ネット麻雀【天極牌】を同時並行していた。
大学の授業は天極牌の時間であった。

天極牌にいる人間の雀力の低さに呆れ果て、アプリ内の掲示板に罵詈雑言とフレンド対戦の申し込みを半々に書き込むようになり、出来杉くん、カフェオレ、という奴らとよく話すようになった。

出来杉くんは記憶力が良く、半荘の河と牌姿を大体覚えていたので、牌譜の残らない天極牌においてありがたい存在だった。
門前高打点型の出来杉と、鳴き麻雀のカフェオレと、もっと鳴き麻雀の俺と、あと一人は日替わりみたいな感じでよく同卓してはチャットで検討をする日々が続いた。

検討と言っても、半分は口喧嘩みたいな罵り合いや煽り合いだった。
しかも出来杉と俺は互いに自分が絶対的に正しいと思っていたから、下手な奴が残りの一人で入ってきた場合は打った後に人格否定をしまくって悪い噂が立ちまくった。

そんな中、カフェオレが実は天鳳七段である、という情報を聞きつけ本人に聞いてみたらそうだよーみたいに言ってきたから遂に俺もやってみるかーと思い天鳳を始めた。
これが今から約五年前の話である。

特上卓までは難なく昇段し、この世界には下手くそしか居ないんかと天狗の鼻が伸び切っていたわけだが、それがへし折られるのにそう時間はかからなかった。
六段で麻雀人生初めての挫折を味わうのである。

ー全然ポイントが増えない。

Twitterも始め、にせ国士という奴と仲良くなり通話もたまにしてzeRoの打ち方は頭おかしい!などとケラケラ笑っていた自分に初めて焦りが見え始めた。

六段で停滞している俺が出す何切るの答えに浴びせられるのは「ガイジ」「だから昇段できない」「後手から加速出たーwww」などというものばかりだった。

そんな奴らにはうるせぇ黙れ殺すぞと言い返し黙々と打つこと約1000戦、晴れて初の七段に昇段した。
間違いなく、この瞬間が天鳳をしていて一番嬉しかっただろう。

ここから八段にサラッと昇段するのだが、明らかに確変だったので息をするように七段に落ち降段間近になり、モチベが落ち、大学卒業とパチンコに生活配分が傾いた。

少しばかりパチンコの話をしよう。
天鳳を始める一年前に初めて友達とパチンコ屋に行って俺は衝撃を受けた。
座ったのは1パチだったがその金の吸い込みの速さに圧倒されたものだ。
初代緋弾のアリアと蛭子さんが出てくる競艇のパチンコの2台を打って結果的に財布の中身は1000円増えていた。

友達は700ハマりのジャグラーに5000円を入れ、計6000円負け。
ジャグラーの静かさに笑い転げ、パチンコの演出の物真似を帰り道で延々と繰り返すそいつらがパチンコにハマるのにそう時間はかからなかった。

定期的にパチ屋に行ってはアリアを打って負けていた俺は遂に「朝イチ」というものに行ってみようと決心した。

初めて朝イチに並んだ恍惚を忘れない。
一目で分かるギャンブル依存症の大群と、何より自分自身がそうなってしまったということ。
社会に対してほんの少し逸脱感のある場所が、いつしか一番居心地のいい場所に変わっていたことを。

誰しもが社会不適合者のはずなのに整列の号令にはしっかりと従うこと、耳を傾けどもパチンコの話ばかり、側から見たら一発でダメな奴だと分かるような一員に気づけば自分がなっている。

そんな自覚と葛藤しながらも俺はアリアを打ち続けた。
当時アリアの演出はパチンコとニコニコ動画で全て網羅し、期待度もパターンも全て暗記していた。
家に帰ればアリアのアニメを全話視聴し、パチンコバイアスによりクソアニメはギリ良アニメとカテゴライズされた。

そんな生活を繰り返し、遂に4パチに手を出し始めアリアに6人目の諭吉を投入した時に思ったのだ。
これ、ダメなんじゃね?
と。

しかし、俺は自分のことをよく理解している人間だったのでパチンコをやめることが出来ないというのもまた深く理解していた。
財布から金がなくなっている帰り道の虚無感よりも、当たった時の高揚感の方が勝っていたのだ。

熟考の末、一つの結論に辿り着いた。
勝てば良い。
金と時間が無くなる一方であり、それなのにやめられないという状況を冷静に整理して考えるとそれは合理的な結論だった。

つまり時間は捨てるがその代わり金は貰おう、という算段である。しかし実際はやめたくない気持ちが強すぎることによる逃避的な理由だ。

そこからはスロットをひたすら勉強した。
右も左も分からない状態からたった一人で稼げる状態まで仕上げた。
そして四ヶ月で100万ほど勝った時に思ったのだ。
「もう、やりたくねぇ・・・」

1,2ヶ月目は楽しかった。
何が楽しかったかと言うと、自分の力で金を稼ぐという感覚が楽しかった。
誰と契約を交わすでもなく、自分の力で稼いでいる、という感覚が楽しかったのだ。

しかし、3ヶ月目あたりから気分は一変した。
これ、バイトと変わんねえ・・・
比較的期待値通りの収支が出る1ヶ月単位の結果というのは、感覚がギャンブルのそれではなく完全にバイトだった。

当時頻繁にハイエナをしていた俺は絶え間無くホールを徘徊し、打つ台が無くなれば店の椅子に座り休む。その繰り返しだった。
こんな美味しいとこでやめんのかよーと見下していた気持ちは徐々に過去の自分に対して思っているような気になり冷めていった。

そんなこんなで大学四年になり、本気を出さないと卒業出来ませんよ、みたいな状態になった俺は遂に頻繁に大学に登校するようになる。

遅すぎた毎日登校の先に友人の姿は無かった。
彼らは三年間で必要単位の殆どを修得していて、四年目に頑張っている人間はそう居ないのだ(休みの先取りとか言って三年の時に一年の休暇を取った自分を少し憎んだ)。

この一年は地獄だった。
片道二時間かけて毎日大学へ行き、9月には遅すぎる就活をし、免許必須と言われ教習所に通い、深夜にはバイトをした。

真人間とはこういうものか・・・とバイト帰りの川沿いでゆらゆら帝国の『つぎの夜へ』を聴きながら思ったものだ。

そんなこんなで大学を何とか卒業し、肉体労働系の会社に何とか就職した俺は晴れて社会人になる。
採用面接は「根性はあります!」と千と千尋の神隠し宛らの"気持ち"だけで押し通した。

一週間の泊まり込み研修の時に同室になった同期は暴力で2回転校をした、というシティボーイだった。
ホスト系の佇まいで、当時から人事一本狙いという明確な目標を掲げていたのは社内で彼一人だけだった。

肉体労働に対しての心構えより先に、肉体労働を最速で回避する算段を立てる、という彼の考え方は他の人間よりも優れているように見えた。

事実、人事に対してのアピールは部署に配属された瞬間に方法を絶たれる。
12時間の肉体労働の先にあるのは、遠い未来への野心ではなく、疲弊し切った肉体に対しての休息の要求である。

閉塞し切った部署の各人は、その日やらなければならないことで手一杯であり、こんなことが毎日続くのかという絶望感を抱えながらも、労働改善の為の体力がそもそも残っていないのだ。

この頃、翌日が休みの日の仕事の帰りはネカフェに直行し、法外に旨いバターカレーを食って天鳳をして寝ていた。
一端の社会の一員を気取る労働者と、気忙しく働く世界のすべての中で、まるであの頃の朝イチに並んでいた人間が集まるようなアンニュイな空間を求めていた。

こうなってはならない、という反面教師的な感覚を抱くまともさは最初から持ち合わせていない。飽きや怠惰が前提として存在していない人間は怪物だ。ひた隠しにするよりも愚直にクズであることを滲ませ続けている人間の集まる空間は憩いの場であった。

入社から5ヶ月が経ち退社にあたっての面談をした時に支店長が言った
「ていうか、これだけ聞きたいんだけどどうしてここに入ったの?なんていうか言いにくいんだけど自由くんって結構頭良いよね。この仕事ってそういう人が来るべき場所じゃなくない?」
という言葉は本心だっただろう。
たまに来るんだよね君みたいな子が。と続ける彼に皮肉めいた様子は一切なく、単純にそれが疑問だったらしい。

ー就活サボって来ちゃった感じです。
来ちゃった、というのは弊社に対して失礼な言葉であるが、咎められることもなく緩慢とした空気が流れた。
絶たれることが分かっている中で築かれる関係はビジネスパートナーとしての関係よりも貴重だ。

誰しもが未来のことを考えて関係の中にストーリーを描いてしまうから、後回しになった本音がいつしか肥大化してしまう。
関係を保とうとする意思こそが逆に、保つためだけの関係を作るのだ。
そんなことを思った。

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ではここで少し、六段だった俺がどういう理由で九段に上がったかを考えてみる。
まず事実としてやっていたのは何切るである。
多分今よりもTwitterの何切るが活発で、TLで何切るを見かけてはリツイートして答えまくっていた。

というかそもそも実はTwitterを始めた理由は何切るをしたいから、というものだった。
当時、どこのサイトだったか忘れたが平面何切るがたくさん載っているサイトがあって、それをしている内にTwitterでどうやら何切るがたくさんあるということが分かったのだ。

ということで、何切るをしまくっていた。
当時の俺のことを知る人は"何切るの人"というイメージも強いかもしれない。
そして何切るをして、理由を一人で書き続けていたら強くなった。
そのおかげかどうかは知らないが、事実としてはそんな感じだ。

ただ、それも強くなった要素の一つであることに間違いは無いが、ルールと環境に適応したから強くなった、というのが一番大きな理由だと思っている。

俺は麻雀というゲームが運7:実力3ということに異論は無いが、当時から天鳳は運5:実力5と言っていた。
何故なら天鳳はそのルールの特異性から、対応出来ている人間が少なく、また(当時は特上卓だったので)四段などはルール覚えたての初心者のような人もいるから、実力が本来のゲーム性より出やすいと確信していた。

特に、ルールの特異性というのは南場の動きなどはトップ取り麻雀とは逆を行くべきものであったりと、手を真っ直ぐ進めた人間が損をするパターンが多い、という事実が大きかった。

なので、当時から短期の成績も普通にアテになると主張し続けていた。
長期の成績に拘るのは環境攻略を放棄した結果行き着く、いわば弱者の拠り所であるという認識だった。
で、それは今も変わらない。
まぁただ、他の人が思っているよりは短期で成績が出るよ、と言った程度の話だ。
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退社してから2ヶ月のニート生活(ここで現九段アカウントの呪いの塊を作る)を経て、教育業界、つまり塾の先生になろうと思いエージェントに登録した。

丸ビル周辺の景色を見るたびに吐き気がしたものだ。
東京の風景の感傷は、プラットフォームで世界がほんの少しだけ自分より速く進んでいるような、自分が横一線に並ぶ美徳から少し外れているような、社会に一人置き去りにされているようなあの感覚に似ていた。

スーツ以外の来訪者は認めない、とでも言うような空気感の漂う東京駅に着いて真っ先に喫煙所を探して歩き回っていることや、泥酔して路端に座り込む若者を見て安心感を抱いている現実が、その感覚を更に増幅させた。

「塾を探しています」
エージェントは手早く近場の求人情報を掻き集め、あらゆる塾を提示してきた。
その中に紛れ込んだ"営業"の文字を見て問いかける。
「営業っていうのは?」
「あぁ、基本的に転職活動をする時に営業経験者だと色々都合が良いんですよね。営業をしたことがあるか、ないか、というのは結構大事なんです。なので、一応営業系の求人は紹介させてもらっています。」

なるほど。
使える人材か使えない人材かを判断する手っ取り早い方法はきっと営業経験者かどうか、ということなのだろう。
しかし自分に営業のセンスが無いことくらい自分でも分かるし、何より全くやりたくない。

結局紹介された数十社の内から、営業1つ含む計5つくらいの説明会兼面接の予約を入れた。
ちなみにこの間、俺は天鳳をかなり打っている。
クズでいられる時間を大切に噛み締めながら、一生クズでいいと思ったものだ。

結局、アットホームな雰囲気を漂わせる一つの塾に引っかかりそこで勤めることになる。
足を踏み入れてみるとそこはアットホームすぎて会議が熱くなると敬語が存在しなくなる、というユニークな職場であった。

自分が馴染めるかは別として、見ている分には面白いし、心地がいい環境だった。

三ヶ月後俺は会社を辞めた。
正式には正社員を辞めた。
拘束時間が長すぎることと、責任感のある仕事がしたくない、ということの二つであるが、要約するとクズだから正社員は向いていない、という話である。

そこからは順調に(?)子どもたちに授業をしている。

子どもたちを見ていると思うのだ。
子どもたちはエネルギッシュだ。
思ったことを素直に言う。
子どもたちは頭が良い。
余計なものに囚われていない。
おかしいと思ったことをおかしいと言う。
本質を真芯で捉えたような質問をはぐらかす大人にはなりたくない。
塾にも、そういう先生は多いのだ。


俺は小学二年生の時に引っ越しをした。
転校をする必要もないくらいの近所で、学校を真ん中に置いた時に逆側に引っ越したような形だ。

毎日見ていた景色が当たり前のように変わったことに対しての感情の揺らぎよりも、新居の空気感や、急勾配に嘆く方が先だった。

8歳の子どもの8年間は大きい。
その筈なのに、それまでの人生の比重の全てを占めていた旧居への感慨は15年もの年月を費やさなければ湧き上がらなかった。

右も左も分からず、喜怒哀楽のままに動いていたあの通学路や昔住んでいた場所の景色を、ふと確かめたくなったのだ。

駄菓子屋、文房具屋、玩具屋、それら全ての懐かしい店たちは洋服屋になっていたり、シャッターを閉め切っていた。

舗装されたコンクリートや綺麗なマンションを拵えた新鮮な風景の中に、あの頃と変わらない子どもたちがランドセルを背負って歩いていた。

一通りの旅路を終え、昔住んでた団地のドアの前に止まった。
果たして今は誰が住んでいるのだろうか。
俺にとって当たり前だった景色は、この世界の誰かも当たり前の景色だったと覚えているだろうか。
このドアの向こう側の人の当たり前は、俺の当たり前より少し更新された当たり前なのだろうか。
そしてそれを、こんなにも懐かしいと哀愁に浸る日が訪れるのだろうか。


小学校低学年の頃母親に、外に遊びに行け家にいるな、と毎日のように言われては自転車で町をひたすら走り回っていた。
学校で既に遊べないと聞いている子の家を何軒も回った。インターフォン越しの親御さんは怪訝な顔をしていたに違いない。

途轍もなく長い坂を登ったとこにたくさんの友達が住んでいて、汗だくになりながら全ての家を回り、誰も遊べずに坂を引き返す時の寂寞を上手に受け止めることも出来なかった俺は、決まって公文の前で友達を待っていた。
夕暮れも近く、その時間から会っても出来ることなど何一つとしてないのに。

当時多くの友人が習い事をしていた。
野球にサッカー、水泳にピアノ、塾に公文に剣道をやっている子もいた。
一つとして習い事をしたことがなかった俺は来る日も来る日も遊ぶ相手を必死に探して町を彷徨っていた。

現代ではそんな勇猛さは必要無い。
科学技術やネットワーク、文化の発達とともに、日照りに揺れる視界や、静かに日暮れを待つような侘しさは葬り去られた。

きっと代わりに、携帯電話を買ってもらえないことが悲哀となり、グループLINEのやりとりに思いを馳せるのだろう。

ちょうどその頃、恐竜公園か怪獣公園かで一悶着起きたことがあった。
公園の中心には地面に備えつけられたバネを足元にくっ付けた恐竜が佇んでおり、小さな子どもたちがそれに乗って遊んでいた。

今思えば、それは一目で恐竜であり、怪獣ではない、と分かる造形だったが残念ながらその公園にはもう恐竜も怪獣の姿も無い。

バネの反動が強すぎて乗っている子どもが危険だという理由で撤去されたのだ。
俺たちの恐竜と怪獣は、決着がつかぬまま思い出の中だけで今も戦っている。

恐竜だと思ったから恐竜だ、怪獣だと思ったから怪獣だ、そんな杜撰な切り分け方が、今では何より愛おしい。

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