麻雀と何切る

麻雀民と何切る民

自分を含め、麻雀の話をするときに達者な物言いをする人がちらほらいる。
そこでお互いがどういう視点、というかどういうポジションに位置するのかというのを浸透させておいた方が色々と円滑に進むと思うわけである。

ちなみに申し訳ないが今回の記事も興味はない。
私は結構自分が興味のない話をする。
ただ、こうして興味の有無に拘らずなんとなく上手くまとまりそうだな、みたいな着想を得た時は出来るだけ文章に認めたいと思う。

目的は整理整頓とその保存だ。
私は一度自分が考えたことを1時間後には忘れているので、アウトプットツールによってそれが残るということに妙な満足感があるのだ。

使い回しが出来るからだ。
興味のある事柄であれば、逐時思考更新がされる可能性があるのでそれらを記録することに意義があるだろう。

今回はどちらかというとどうせ忘れる事柄で二度と考え直したくないことを保存することに意味がある気がする。
擬音語にすると
「ぽえっ」
って感じだ。

高校の頃
「消しゴムのカバーを外したらテストの答えが分かる、ことにした」
という名言を残した友達がいる。
この記事は「ぽえっ」だ。

適当に話した。ちなみに昔はずっとこんな感じだった。

さて、何故私がこのことについて書こうと思ったかというと
何切る民と麻雀民って違うよなぁ
というものからである。

私の場合は何切るをしたくてTwitterアカウントを作った過去があるし、別に今まで考えたこともなかったんだけどなんというか彼の存在が大きい。龍。
龍よ龍。みんな大好き、龍。

龍という人間は確か半年前くらいにひょっこり現れた。
どんな登場の仕方だったかは覚えてないが、確か読みの話ですごく鋭いことを言っててイチローのテンションが上がっていたことを覚えている。

イチローというのは三着率30%くらいの鳳凰民だ。

まぁ、とにかく何切るで言うとまともなことを言う人なんてみんな大好き大和田さんくらいしかいなかったわけだ。
というかまともな人はたくさんいるけど大体めんどくさがり屋だったり、そういうタイプじゃなかったり、まぁいろんな要因があるんだけど。

んで、そんなところにかなりまともなことを言う龍という人間が現れたというわけだ。
私も
「こんな奴は打たんくても九段くらいの実力はあるに決まってんだからそれがわからん奴はゴミ」
的なことを言ったはずだが、なんとそんな彼は実戦だとあまり輝かしい結果を残してないらしい。

まぁ本当のところは知らないが、なんか流石に雑魚くねーかみたいな戦績のアカウントが出てきたらしいのだ。

んで、まぁこれは分かりやすい例として出しただけでたとえば私とかもどちらかと言えばその類だ。
本気で何切るを答えさせたらほとんどの奴を蹴散らせる自信があるけれど、実戦だと別に〜って感じ。
平面何切るは知らないけど。

まぁでも、彼ほどの乖離はない。

ここで"何切る"というものをハッキリさせようじゃないかと。
だって何切る出す人ってキレるじゃん。
俺は結構多くの人をキレさせてきた。
んで、なんというか別にキレて全然いいと思う。
俺は落っこちてる情報としか思ってないし、インターネット上でその裏側に人間がいるなんて思わないから。

俺が答えたいから答える
それを不快に感じたらキレる。

この構図を問題視する方がどちらかというと感傷的で敏感すぎると思っている。
画面の向こうで誰がキレてようが何の関係もない。
ここに感情を抱くことがソーシャルネットワークによる感覚の変化なんだろう、と思う。

で、感傷的で敏感な人は"ネットリテラシー"を求める。
だって感傷的で敏感だから。
逆に私みたいな人はそんなことは気にしない。
この二つは交わらない。

何故なら互いが感じている"存在性の濃さ"が異なるから。

感傷的で敏感な人は画面の向こう側の人にも絶大な愛を与えようとするし、求めるんだと思う。
わーすごいなぁ、と思う。

でもお前みたいな奴が正義ぶるのは気色悪いからやめろよって思う。
お前が感傷的で敏感なせいで関係性を感じる対象範囲が広いだけで、その不自由性を他人に求めるな。

それと同時に羨ましさみたいなのもある。
特にそれがプラスに働くと凄く優しい人もいるわけで、なんというか全く全てが悪いわけではない。

少し話が脱線した。

何切ると麻雀の話に戻そう。
端的に言えば何切ると麻雀って違うんだよね。
その違いは"思考時間"。
何切るって何時間でも詰めれるもので、初感で答えたものと異なる答えが後から出てくるなんてことはザラにある。

ただ、実戦だと思考がそこまで追い切れずに初感の間違った方を切ってしまうなんて日常茶飯事で起こるわけだ。

で、"何切る"というものに対してその認識が甘い人間がほとんどであるように思う。
ここで一つ言いたいのは、何切るっていうものの有効な活用の仕方は理解でも暗記でもなく、その感覚そのものを染み込ませることだ。

まぁ今回のテーマではないのでそれはこの辺にしておいて
この前提において"何切る民が調子に乗りがち"という構図が出来上がるという話をしよう。

何故なら、時間無制限の優位性という認識が甘いから。
彼らは麻雀民とは違いとても優位なフィールドで戦っているというわけだ。

と、ここまではある程度共感性の高い事実であると思う。

今回話したいのは
それがどうなのか、みたいな話だ。

どういうことかというと
「何切るとして産み落とされた盤面は、そういう要素が含まれて当然なのではないか」
という視点である。

何切るというのは、それが投稿された瞬間に"何切る"になるのではないか、ということだ。
要するに
"麻雀"をしていたのに、何切るとして切り取って投稿した瞬間にそれは"麻雀"ではなく"何切る"に変化するのではないか
ということだ。

何切る民と麻雀民の対立の本質はここにある。

何切る民の主張としては
何切るとして出されてる(ある種正解のあるクイズ)のだから、より正当性のある言語化を伴った優れた答案が正義であろう
みたいな。

麻雀民としては
いや、よくわかんねーけど、これかな。合ってるか知らねーけど俺強えし。
みたいな。

こういう構図だ。
で、何切る民は得意の言語化()で相手を説き伏せ、麻雀民は安定段位でマウントを取るわけだ。

これは"何切る"というものの見方の違いによって発生している。

で、私的には"何切るが達者な人"は成立すると思っている。

たとえば
ウザク、みーにん、ネマタ、nisiさん
みたいな麻雀研究(アプローチはそれぞれ異なるが)をしている人間に対して
「でもお前麻雀下手じゃん」

とか言わなそうじゃない?
この感覚に似てる。
だってこの人たちは研究に長けてるから。
その人に対して"麻雀の実力"を求めるのは少し違う感覚がある人が多いと思う。

で、実は"何切るが達者な人"も同じなのだ。

ただ、何切るが達者な人はそのほとんどが実力も担保されてることが多い(これは分かる人にしか分からないかもしれない)から隔てて考えることが今まで正直なかった。

しかし龍のような異質な存在によって再考すべき事柄に変容したわけだ。

で、逆に問題なのが
何切るが達者な人が
「こんなもん切る奴、麻雀やめちまえ」
みたいな麻雀の実力を推測して悪い物言いをする(ように見受けられる)という現実がしばしばあることだ。

まぁ私の場合、どう思われようがどうでもいいので私に限っては私の中で納得しているのだが
こういうのは他者が見たときに
「いや、お前何切るでイキってるだけで実戦はゴミじゃん」
と思われても仕方ない。

ただ、実は何切る民としては
「何切るとして思考時間無制限に昇華されたこの問題を解決出来ない脳みそなら麻雀やめちまえ」
と言っているのだ。

ただこれも丁寧に分解すると
「何切るとして思考時間無制限に昇華されたこの問題を解決出来ない脳みそなら何切るやめちまえ」
となるべきなのである。

要するに何切るを見て
「麻雀やめちまえ」
はこの前提の上では不当なのだ。

なんというか、多分こういう性質であることが浸透されれば不毛な争いというか対立みたいなのは減ると思う。

だって別にいいじゃん。
こいつ何切るまともだけど実戦ゴミだよなー
とか
ぶっちゃけどうでもいい。
だって何切るに昇華した時点で何切るが正しい奴が正義の世界観に産み落とされてるんだから。
麻雀の話はしてない。

逆に何切る答えてる奴が
こんなのも分かんないなんて麻雀下手くそだなー
ってのも的外れだと分かる。
そしてその本意は
「何切る下手くそだなー」
であるべきだから、それはあんまイラッとしない気がする。

この性質理解がされれば、しょーもない言い合いは減るんじゃないだろうか。

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