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想像力のない人間

以前に、経済的観点から『人的資源、経済的資源について』話させて貰った。

https://note.com/1234ko/n/necfcf8dcbe79

他にも、横断歩道や踏切のけたたましい音や夜中でもお構いなしの点滅は何の為か?

なぜ駅のホームに点字が設置されてるのか?

なぜ地方では県庁所在地など主要都市の駅にしかエレベーターはないのか?

もし本当に健常者以外は”必要がない存在“だとするならば、わざわざ養護学校や盲学校、聾話学校、特別支援学校等に分けるのは何故なのか?

を考えれば自ずと『社会参加させる為には、どういったサポートが必要で、どんな設備があれば一人で出来る様に成るのか?』という研究目的であろう事は容易に検討が着くと思う。

教育の推進を図るのであれば早期校舎の建設が急務である。学校一つ一つにエレベーターをいちいち設置してたら、資金がいくらあっても非効率と言わざるを得ない。となれば『社会参加させる為に、どういったサポートが必要で、どんな設備があれば一人で出来るのか?』を調べる意味でもザックリ身体部位なり、障害で分けて教育をしたのだろうなと想像するのが、そんなに難しい事だろうか。

幼稚園から大学まで全国に58,418校あって、養護学校や盲学校が含まれてるのかは知らないが特別支援学校が1,039校ある。

数値から考えても、『目や耳、身体など特定の部位に応じた設備の学校を作って、各地域の障害者を集めて研究した』とした方が理屈に合うのではないだろうか。

現に、今では公立の学校でもエレベーターが備え付けられて車椅子の子でも通っているのが、その証拠である。

もちろん脳の損傷により、運動機能障害の人も居ると思う。だからといって『身体が動かない人間は全員が脳を損傷していて、もれなく学習機能を担う神経の異常により学力も低い』と運動機能を担う神経と学習機能を担う神経とをゴッチャにして頭が悪いとする方が乱暴ではないだろうか。

そもそも学習機能を司るのは大脳皮質(脳天)で、身体の動きを担うのは小脳(うなじ)なので、そもそもの位置からして全然違う。頭を打って身体が動かなく成った人間というだけでも、かなり数が限られる。

障害と学力の因果関係について、後に紹介する菅原崇さんが良い例だ。

何より、身体障害の人間がもれなく全員、身体機能だけでなく学習機能の脳神経なり両方を損傷していたり、併発してたとして、『だから社会の役に立たない』という事を証明して、いったい何の経済発展の役に立つのだろうか?

もう一度思い返して欲しい。『社会参加させる為には、どういったサポートが必要で、どんな設備があれば一人で出来る様に成るのか?』という事が経済発展の為に知りたい訳だ。

※1『身体が動かない人間はもれなく全員、身体機能を担う神経と学習機能を担う神経の両方を損傷している』と解き明かしたとして、それは経済を発展させる為の解決に成っているのだろうか?

鉄道会社で働いた事はないが、乗客に多く利用して貰う為に活気ある街や都市部と最寄り駅が近くにない地域とを線路で結べば出稼ぎが増えるのは言うまでもない。

区間の間に駅でも作れば、通勤がし易いように近くに移り住もうとする人が増えたり、郊外で比較的に安価である事から繁華街も出来るし、アクセスのし易さからビジネスホテルが建つのも想像に難しくないと思う。

そうなれば更なる利用者を求めて線路拡大も考えられるし、主要都市や利用者数の多い駅にエレベーターを設置すれば、車椅子だけに限らず、旅行者や営業マンなど、更なる利用者の増加も見込めるのは少し考えれば分かる事ではないだろうか。

これは『経営戦略』だったり、『どこで設備を投入するかの意思決定、つまり会計、お金の話』だ。

一点投入なのか、段階的に設備を増強して行く方が負担が減るとか複雑な意思決定を知らなくても、要は『線路を拡大させた方が売上が上がるのか?設備を増強する方が利用者増加が見込めて売上が上がるのか?』の選択肢に考えが至れば、自ずと※2『何故そこまで社会に人を出したいのか?部屋に閉じ込めてては何故いけないのか?』と、“自社だけの売上”ではなく、“経済や流通など社会全体の売上”に疑問が行けば必然的に、上記記事の経済発展にどうしたって成ると思う。

良いのか悪いのかはさて置き、経済発展を遂げる為に肉体労働者として五体満足な人間が選ばれ、各地でインフラを整える公共工事が出来る様に交通網を張り巡らせる事が優先されるのだから、階段など、五体満足な人のが使い易いように物理環境が作られるのは言うまでもない。

もし『五体満足な健常者がインフラ整備や公共工事で社会環境を作って来たんだという自負』から云っているのであれば、「そもそもお前が作ったのではないだろう」という事はさて置き、公共工事なり、知○障害者の人達も貢献してる訳だから、「経済発展の功労者である自分達が中心だ」と主張するなら、同じ功労者である知○障害者に対しての扱いがおかしいのではないだろうか。

もちろん。自分達の貢献度から権利を主張するという事が知○障害の人にとって難解という一面もあるだろうが、もし求めるべき必要がある見返りであれば、そういった団体が動いて「功労者なのだから優遇しろ」と裁判で知○障害者の方達も争っている筈である。

しかし、実際は水戸事件のように『理不尽な体罰や傷害に対して訴えたり、安心して働ける職場環境を求める』くらいである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ここまで行くと、どうしても『自分が偉いんだ』とか『能力が高いから、自身は選ばれた人間なんだ』、『こんな事も出来ない人間と俺を一緒にするな』という自己顕示欲だったり、承認欲求から来る以下のツイートでいう補填行為なり、生存戦略に思えて成らない。

※1『身体が動かない人間はもれなく全員、身体機能を担う神経と学習機能を担う神経の両方を損傷している』と解き明かしたとして、それは経済を発展させる為の解決に成っているのだろうか?
※2『何故そこまで社会に人を出したいのか?部屋に閉じ込めてては何故いけないのか?』

上記の事だけでも『健常者様』や『ガイジ』という発想に本当に成るのか、また問題に対する回答として適切かどうかが読み取れると思う。

“横断歩道”や“踏切”など冒頭に列挙した事からでも、また”経営戦略“や”会計“から考えても劣等感でないのなら表現は違えど『社会に出て来るな。作業所や養護学校に閉じ込めとけ』みたいな答えに、なぜ成るのかが甚だ理解出来ない。

以上のような事を踏まえて考えれば、『学校教育』を支える教師達に、経済的観点から何が求められているのかは自ずと絞られるのではないだろうか?

以下の教師達の『出来ない事や苦手なこと、身体機能的に不可能な事をやらせること』が本当に経済発展の為に求められる『学校教育』だと思うのかを考えて貰いたい。

『好きな事ややりたいこと、上達したい事がある。しかし出来ない事や苦手な事もある中でどうすれば実現出来るのか?』という生徒の悩みは、本当に障害者特有の悩みだろうか?

ここで紹介する菅原崇さんは、後天性だが肩から下が動かない四肢麻痺の重度障害者でありながら、日本初の音声認識を利用した司法試験に受かった弁護士だ。

菅原さんは成人の方で、方法について協会と交渉を重ねて受験にまで漕ぎ着けた訳だが、障害をもつ生徒で、成りたいものや受けたい資格試験の相談が、それまでに学校に寄せられてない筈はない。

何が言いたいかというと、『成りたいものや受けたい資格試験等があって、音声認識ソフトなど前例がない方法でないと受験が出来ない場合に、障害を負った本人が、またはその家族が調べて、協会に対して受験方法を提案し、手続きや許可を取らなければいけないのだろうか?』

『受験の合否ではなく、受験が認められるかどうか』は先天的であれ、後天的であれ、障害を負った本人の自己責任の範囲に含まれると思うだろうか。

要は、『授業ではノートを写すのに、どういったサポートをしているか?』『どの様に学校では試験を行っているか?』を報告書で上げるなど、『どんな状態であっても資格試験に受験が出来る』ように協会に働き掛けるなど、然るべき対応を教師達がしていれば、もっと早くに音声認識ソフトによる受験が採用されていたであろう事は想像に難しくない。

上記の「自分で家に帰れるものなら帰ってみ。火事に成ったら死ぬわ」という記事について以前、以下のようなツイートをした。

的外れな判断をしてる時点で怠慢としか言えないが、このように『そもそもの問題』に対して、回答が解決ではなく、的外れな方向に職分を越えてまで実行に移して、後始末に周囲を巻き添えにして『更なる問題』に発展させる。

この学力や学歴では測れない馬鹿で勤勉な奴。これが俺の表現でいう『想像力のない人間』だ。

AIの進歩で仕事が奪われてる事や今後、無くなる職業が、これほど迄に叫ばれてる中で「お前等の居場所は作業所やぞ」という意見は、根本的解決に成るだろうか?

今後、仕事が無くなって行くのは間違いない。それは障害者に限らず、健常者もそうだと思う。

化学進歩により軽減させたい作業が、重労働や肉体作業、単純作業だとするなら、真っ先に仕事を追われるのは知○障害の方であろう事は『経済発展、科学の進歩』を掲げた時点で想定内の話ではないだろうか。

それに対する手立てが現状ないのか、打ってる最中なのかは分からないが、『もし現状手立てがないのであるなら、もし手立てを見つけられる人材が居るとすれば、また化学反応で世に産まれる要素があるとすれば現在、部屋で引き籠もっている人的資源であろう』とは考えられないだろうか?

手立ての一つでも提案出来れば良いのは分かっている。

残念ながら「お前等の居場所は作業所やぞ」と問題を先送りにしてるお前も、打開策が出せず他人任せにするしかないという意味では俺も同じだから賢くないのは間違いない。

だったら、せめて部屋で引き籠もってる奴を外に出て来るように呼び掛ける方が、批判するよりは“まだマシ”ではないだろうか。

上記教師のような的外れな方向に職権を越えてまで、罵詈雑言を浴びせたり、実力行使により従わせて自尊心を保ちたいだけの想像力のない人間が、教師だけに限らず、上司や親、兄弟に居て、それが世にいう問題教師、パワハラ上司、毒家族だと理解してても尚、我慢して一緒に居る必要があるのだろうか。

冒頭で列挙した『経営』や『経済』、『会計』から考えれば是非は別にして絞れる話であっても、実際に見ても、触っても、体験しても、そんな風な答えに成らないと思えるような行動をする想像力のない人間が居る。

だから文章で書いてあったとしても実際に触れない事から難易度が上がるのは言うまでもない。
①字が読める程度。
②単語の意味が分かる程度。
③文章内容が理解出来る。

ましてや見えもせず、触れもしない、言葉だけのやり取り、話し合いの難易度が想像力のない人間にとって、どれだけ難しいかは教師を始め、毒家族など例題に上げた通りだ。

要は、『俺が居ないと生きて行けないよ』と思い知らせる為に、苦手な事をさせたり、お金を奪ったり、時には実力行使で誤った判断を強制する事で、徹底的に成功体験を積ませない事で、自身より劣る憐れな存在を意図的に作り出し、それを助けたり、アドバイスしたり、叱ったり、励ます事で自身の存在理由にしたいだけのアベコベな人間を相手にする必要はないから、何も手持ちがなくてもいいから物理的距離を取る為に外に出て、さっさと逃げるべきだ。

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