8月が終わりました
二十歳になって最初の8月が終わった。十の位が一つ繰り上がっただけなのに、毎日の情景が示唆を富んで視界に飛び入ってくる気がする。豊かと言えばそうなのだろうけど、どこか忙しなくもあり、10代の頃から抱えている漠然とした生きづらさの解像度が無為に高まっただけのようにも思う。
ただ少なくとも感性が冴えている今のうちに、日々のうだつの上がらなさを解消するべく、まずは「生活」をすることにした。
生まれてこのかた引越すことなく、ただ毎日同じ窮屈な部屋に身を置くことに慣れてしまった。そう思うと途端に自分を取り囲む家具がどれも、空間的余白に対しても、私の人間としての器に対しても大きすぎるように思われて、結局全て分解した。それなりの大きさの家具ともなれば分解したとて捨てるのにもお金がかかる。誰か人の手を借りないと何事もままならないということだ。
勢いに任せて空っぽにした部屋は思いの外広く、自分が享受してこなかったあらゆる可能性のことを考えてしまいそうになる。いつも一度悩むとしばらくしんどい気分になるので、そうなる前に一通りの家具を揃えてレイアウトも考えた。我ながら満足のいく部屋になったと思う。
空間を考えることは、つまりは今後の生き方を考えるということだ。帰宅してから部屋までの動線の確保やら今後のライフプランを考慮した上での本棚の整理整頓、自分の身の丈に合ったワードローブの構築。部屋を新調したらライフスタイルも変わる。
ずっと、なんとなくここまで生き延びてしまった感覚が拭えなかったが、どう在りたいかをデザインすることでその虚しさに彩りを添えられたと思う。少なくとも今は毎日がクリアになった。
今日から9月、長月である。おろし立ての服を着て散歩でもしようと思う。