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浪人で一人ぼっちで頑張ってる君へ


自分が前に進めていないような感じがしてしまって、目の前が暗くなってしまったような時期を経験したことがないだろうか。何を信じたら良いのかわからない。だから、他人が書いたインターネットの心ないコメントにいちいち反応したり、傷付いたりしてしまう。筆者は、こうした経験を浪人期間中に味わった。ここでは、そんな中で自分がどうやって自分を保ち、辛い浪人期を乗り越えたのか、その中で考えたことを記録しておこうと思った。つまり、これは過去の自分へのメッセージでもある。僕の人生を通したメッセージが、いつかどこかで苦しんでいる人の手助けになれば、嬉しい。

さて、人と違う一歩を踏み出し始めたとき、人は不思議な経験をする。それに最初に直面したのが、僕にとっては浪人が最初だった。
高校を卒業すると、それまで同級生や学校の友人、部活の先輩など、同じ場所に所属している人との間で交わされていたような何気ない会話が、急に懐かしいものになった。今感じていること、何が正しいと思うのか、共有できる相手がいなくなった途端、環境が変わってしまった途端、何を正しいと信じて良いのかが分からなくなってしまったのだ。

僕は、浪人中にこれを痛いほど味わった。何としても浪人で結果を出したいという思いが強すぎてしまった僕は、周囲にいる人達が皆、競争相手に見えてしまっていた。予備校に通わせてもらったのに、授業が全て無意味に思えてきてしまって、途中からほとんどの時間を自習室で過ごすようになっていった。自分ができる部分と、できない部分をしっかりと捉えながら、知識に肉付けをしていく過程で、他の人が作ったカリキュラムがそこに入ってくる余地はないと思ったからだ。

けれど、無意味だという気持ちを共有できる相手が予備校にはいなかった。そういう気持ちを、誰とも共有できないことが辛かった。
完全によりどころが無くなってしまったとしても、一人でも頑張れる人、というのは、そんなに多くないだろうと思う。

人はよりどころが無くなると、インターネットで誰かを傷付けようとしている人の書いた情報やメッセージに、心を揺らされてしまう。
「〇〇大はクソ」
「浪人したら最低は〇〇」
こうした情報を目に入れたくなくても、
勝手に自分の視界の中に入れてしまう。

他人の声と、自分の声の区別が付かなくなってくる。

そんなかつての自分に伝えたい。

今、この文章を読んでいるあなたは、紛れもないあなただ。
あなたは、あなたのまま、そこにいる。
日々、いろんなことを感じて、考えて、怖くなったり、嬉しくなったりしているあなたは、そこに確かにいる。それを忘れてはならない。

それが怖いってことは、それがあなたとは遠い存在ってことだ。
それが嬉しいってことは、それがあなたと近い存在ってことだ。

みんなにとっては「当たり前」だけど、自分にとっては「当たり前じゃない」という状況に陥ったとき「これは俺だけなのか」という事実を悲しく思ったり、悲観したり、不安に思う必要はない。

自分が、自分の立場から感じること、考えることは、確かにあなたの心、あなたの頭の中にある。他の誰であっても、その場所に手を伸ばしたり、それを書き換えたりすることはできない。そんなことは許されない。それを許すというのは、他人に人生の主導権を与えてしまうようなものだ。

今日の自分が、今日の勉強を通して「そうか、そうだったんだ」と一歩前進することができたなら、その気持ちにどこかで聞いた言葉を覆い被せる必要はない。「そんなの当たり前」という一般的に言われる他人の言葉を前にして、自分が経験を通して感じた「そうだったんだ」という自分の言葉を恥じる必要なんてない。

自分自身が、文章ではなく、目の前の現実と向き合う経験を通して「感じている」時点で、それを感じる自分を許せ。
今日の勉強で少しでも前に進めたなら、それは君にとって大切な一歩だ。
「最低これくらいはやれよ」なんて言葉に踊らされる必要はない。
それをどんなに他人にバカにされても、その大切な一歩に喜んでいる自分を否定する人の言葉に耳を傾けることは、自分にとって不正解だ。

自分とは遠い存在の他人の言葉を使って、自分を傷付けたりするな。

僕が浪人中に聞きたかった言葉をここに詰めました。

誰かの助けになることができたなら、嬉しいです。

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