他人の『好き』に触れられる
私が人生で最も大切にしている価値観の一つとして、『自分の好きに忠実であること』がある。
好きな服、好きな食べ物、好きな人、好きな音楽、、、常にそういった自分の好きを大事にしていたいということ。
そんなの当たり前にできることじゃんと思うかもしれないが、その「好き」は本当の意味での「好き」ではない、という場面も結構ある。
例えばいつも一緒にいる友達。
本当にその人のことが人として好きだから友達でいるのか?
この人と一緒にいると映えな写真を撮ってくれてインスタ載せてくれるから!とか、
ご飯奢ってくれる先輩だから!みたいな、不純な理由ではないか。
または自分が好きだと思ってきている服。
でも実はそれはそれ自体が好きなのではなく、好きなインフルエンサーが着てたから!とか、
綺麗めOLに見られたいから!みたいな、不純な理由ではないか。
意外と、好きに本当に忠実でいられている人って少ないんじゃないか?
今回の三連休でまた仙台に帰省して、心からやっぱ仙台っていいなーと思った。
仙台に住んでた頃は特別そう思うことはなかったんだけど、東京ではこの簡単に思える「好きに忠実に生きる」ができてない人(あるいは店、活動)が多いと感じた。
能力的にできてないというか、資本主義や競争社会の中で生きていく上で、それよりも必要とされる要素が多く、仕方なく好きに忠実に生きる能力は淘汰されてしまったんだなという感じ。
東京で生き抜くには、マーケティング、ブランディング、経済効率、流行みたいなものが欠かせないものとして上位にくる。
かといって田舎すぎても競争が起こらないので、文化が洗練されて行かないみたいなところもあるし。
だけど仙台のいいところは、そういったことを気にしなくてもある程度生きていける都市の規模感なので、好きを大事にできる余裕があるところだと思う。
いろんな都市について仙台と同じことが言えると思う。
と思っていたところでタイムリーに、threadsを眺めてたらこんな感じの内容の投稿があった。
『東京に上京して半年だけど、全てがあると思っていた東京は実は何にもない。寂しい。』
私はこれにすごく共感したのだが、そこにトップでついていたコメントは以下のようなものだった。
『東京が何にもないなんてもったいない!もっと外に出てみたらどうですか?葛西臨海公園、築地、〇〇公園...(以下略)とか、ぜひ行ってみたら楽しいですよ!何でもあります!』
これ以外についていたコメントは、地方でも冷たい人多いですよね?とか、半年しか居ないのに何が分かるんだよ!じゃあ出ていけ!みたいな結構酷いもので、このコメントなんかはすごく良心的なものだった。
でもなんだか私はこのコメントを見て非常に悲しくなったし、やっぱりこういう人とは分かり合えないなと思った。
このコメントに、そういうとこだよ!と言いたくなってしまうような、東京の寂しさが詰まっていたからだ。
東京の寂しさは、人が冷たいとかそんな浅はかなことではない。
もちろん東京は他のどこの日本の都市よりも多く物を持っている都市だということは分かっている。
それなのに感じられるこの寂しさは何なのか。
書きながら話の本質が変わってきてしまったので後編に続けます。