これからソーシャルワークの話をしよう
はじめに
岡村隆史さんの深夜ラジオの発言からはじまった一連の騒動。これをきっかけに書いたこちらのnoteが多くの方に読まれました。
本日,この騒動の当事者である藤田さんよりコメントをいただきました。
また,これに続けて,藤田さんは次のツイートをなさっています。
以上を総合すると,どうやら私は「ソーシャルワーク」というものについて理解をせずに藤田さんの行動を批判している,ということのようです。
私のnoteには実は多くの福祉職の方からも賛同の意見をいただきました。藤田さんの考え方によれば「お前ら全然わかってないわ」ということのようです。
さて,皆さんは思いませんか。
「ソーシャルワークって何?」って。
その言葉の意味するところが分からなければ,藤田さんの批判の内容もわかりませんよね。
そこで,ソーシャルワークについて解説した上で,ソーシャルワークというものを踏まえた場合に,岡村隆史さん個人を批判し続けた藤田さんの行動は適切なのだろうかという点を考えてみたいと思います。
ソーシャルワークとは何
さっそくですが,ソーシャルワークとは何でしょうか。
ソーシャルワークについては,福祉についての偉い人たちが考えた2つの定義があります。それぞれ「ソーシャルワークの定義(旧定義)」「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義(新定義)」と呼ばれたりします。
後者を「新定義」と呼んでいるように,今は「グローバル定義」でソーシャルワークを理解するのが一般的です。
この定義を順に読んでいきましょう。引用部分はわかりにくいですが,あとでわかりやすく解説しますので,少しだけ我慢してください。
[*6/10追記 今回の解説にあたって,グローバル定義は以下のリンクを参照させていただきました。
https://www.jacsw.or.jp/06_kokusai/IFSW/files/SW_teigi_01705.pdf ]
ソーシャルワークは,社会変革と社会開発,社会的結束,および人々のエンパワメントと解放を促進する,実践に基づいた専門職であり学問である。
社会変革や社会開発は何となく分かりますよね。社会を変える,と理解すればいいでしょう。社会を変えるというのは制度を変えるだけではありません。例えば,差別意識や偏見などを取り除く,ということも社会を変えることです。
社会的結束は人々が結びつくことです。
わかりにくいのが「エンパワメントと解放」です。これは社会に抑圧された人を解放するということです。例えば差別や搾取,偏見,貧困,蔑視などで社会的に抑圧されている人に力を与えて抑圧から解き放つ。このようなイメージです。
このようなことを行う「実践に基づいた専門職であり学問」というのがソーシャルワークだということです。
社会正義,人権,集団的責任,および多様性尊重の諸原理は,ソーシャルワークの中核をなす。
次に,ソーシャルワークの中核が出てきました。中核とは「もっとも大切にすべきこと」だと理解すればよいでしょう。
社会正義と人権については説明をしなくてもよいでしょう。
注意すべきは,社会正義はカチンと定まった一定のものではないということです。ある人にとっての社会正義が別の人にとっての不正義である,ということは普通に起こりえます。
人権については,人が生まれながらに誰でもっており,侵すことのできない権利です。日本国憲法には多くの人権が定められています。代表的には表現の自由です。この人権は,多くの人権のなかでも特に大切にされなければならないものと理解されています(この理由を話し始めると法律学の講義になるので,今回は省きます)。
次に,集団的責任は難しい概念ですが,自分のことだけを考えずにお互いにお互いのことを考え合って行動していきましょうという話です。
最後に多様性尊重です。
世の中にはいろんな人がいますよね。性別,言語,肌の色,宗教,文化,そして性的指向。そういうもののあり方が「多様」であることを認め,尊重していきましょうねということです。自分と違う人,違う感性を認め尊重するのは簡単ではありませんが,それを許容していきましょう,排除してはいけません,ということです。
ソーシャルワークの理論,社会科学,人文学および地域・民族固有の知を基盤として,ソーシャルワークは,生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう,人々やさまざまな構造に働きかける。この定義は,各国および世界の各地域で展開してもよい。
定義の最後はこの文章です。
太字にした部分を解説しておくと,「生活課題」とは生活をしていく上での困難ですね。その困難にとりくんで,ウェルビーイングを高めると。ウェルビーイングとは,身体的・精神的・社会的に良いコンディションだということで,端的に言うと「幸福」ということです。つまり,生活上の困難にとりくんで,人をできるだけ幸せにしていきましょう。そのために,人々やさまざまな構造に働きかけていきましょうということなのです。
私なんぞは,こんな難しい表現を使わなくても「困っている人を助けて幸せにしようぜ」と表現すればいいのになと思うのですが,私がそれを言ってもこのグローバル定義は変わらないのであきらめます。
さて,ここまでソーシャルワークの定義を見てきました。引用した定義はかなり小難しかったと思います。最後に私なりに言い直してみましょう。
①ソーシャルワークは,社会を変えたり,人々を結束させたり,抑圧された人を力づけて抑圧から解放するものだ。
②ソーシャルワークが大切にする価値には社会正義と人権がある。社会正義は人によって違う場合がある。また,人権はすべての人に保障されていることが重要だ。代表的な人権は表現の自由だ。それ以外に,お互いを考えて行動する集団的責任,そして多様性を尊重することが大切だ。
③ソーシャルワークは,生活していく上での困難にとりくんで,人を幸せにしていくものだ。
岡村隆史さんを叩き続けることはソーシャルワークの視点でどのように評価されるのか
ここまでの説明を踏まえて,岡村隆史さんの深夜ラジオにおける発言を岡村隆史さんの謝罪後も批判し続けた藤田さんのアクションについて,ソーシャルワークの視点でどのように評価されるのか考えてみます。
まず,藤田さんの「岡村叩き」の動機は,女性に対する差別や蔑視をなくしたり,貧困を是とする思想をなくしたりするというものです。
この動機それ自体は,ソーシャルワークの視点からは肯定的に評価されると思われます。というのも,ソーシャルワークの内容として,差別や蔑視により抑圧された人を力づけて抑圧から解放する(エンパワメントと解放)というものがあり,藤田さんの動機はこれに関わるからです。
また,インターネットの力を使って藤田さんの意見を発信するということは,ソーシャルワークの内容である「社会を変える」ことや人を結束させることにつながり得る手段です。
ここまでは,なるほど藤田さんの行動は「ソーシャルワーク」として説明可能なのだなと思います。
ですが,それゆえに,岡村隆史さん個人を公に批判し続けることは,やはりソーシャルワークのやり方としても適切ではない,と言わざるを得ません。以下,その理由を述べます。
①動機と手段との関連性が極めて薄い
岡村隆史さんの深夜ラジオでの発言は,私の感性としても「ん????」と感じられるようなものでした。
ですが,彼の発言は,直接的に貧困を望んだり,差別を積極的に肯定するものではありません。彼個人の内面にはもしかしたら何らかの蔑視的な考え方があるのかもしれませんが,「おまえら,もっと蔑視していいぞ」と積極的に呼びかけたわけでもありません。
このような性質の発言に対して抗議を行ったところで,社会を変えることや,人々を結束させることにつながるとは,私は思いません。
むしろ,一連のアクションによって「岡村ファン」「深夜ラジオファン」が結束し,藤田さんに対して執拗に攻撃する状況が続いています(※)。
※誹謗中傷は本当にやめましょうね。議論は紳士的に!
社会を変える,人を抑圧から解放する,ということの手段として,岡村隆史さんを叩き続けることは有効に機能しないどころか,むしろ「敵を作った」という意味で有害だったとさえ言えるのではないでしょうか。
貧困ゆえに抑圧されている人はたくさん存在します。しかし,その社会構造を生み出している責任を最初に負うのは政府です。本当に「社会を変える」ことを目指すなら,怒りをぶつける対象は政府だと思いませんか。
②ソーシャルワークが大切にしている他の価値を害している
次に,ソーシャルワークが大切にしているのは,社会を変えることや,人を抑圧から解放することだけではありません。人権や,多様性の尊重も大切にしているわけです。
今回,多くの批判が岡村隆史さんに向けられたことによって,彼はかなりの精神的苦痛を受けている可能性があります。自ら深夜ラジオで(もちろん不適切な面はあるにせよ)憲法で保障された表現の自由という人権を行使した。そしたら,あれだけの大バッシングを受けたわけです。
普通の人でも「もう人生いいや」と思うくらいにメンタルがやられてもおかしくないでしょう。まして,岡村さんには精神科的な既往歴があるという情報さえあります。そういう方を叩き続けることの危険性,ソーシャルワーカーであれば誰もが知っているだろうと思います。
端的に,社会の改善のためにいち個人を叩き続けることは,その個人の人権を尊重しない行動だと言われても仕方がないと思われます。
また,不適切な側面はあるにせよ,岡村隆史さんの深夜ラジオは多くの人が楽しみにしていたわけです。NHKの番組にしてもそうです。それを,一度の失言で有無を言わさず「降板せよ」と言い続けることは社会の多様性を尊重していないことになるのではないでしょうか。
③一連の岡村叩き運動によって,新たに抑圧された人を生み出している
ソーシャルワークは抑圧された人を力づけて解放するものです。ところが,一連の岡村叩き運動によって,あらたに抑圧されている人がいます。それは現に性産業に従事している方々,または過去に性産業に従事していた方々です。
私のフォロワーにも何名かいらっしゃいますが,彼女たちは,一連の運動によって,性産業従事者に対する偏見・蔑視が強まったと感じていると思われます。
表現を変えますが,次のような悲痛な叫びがありました。
私たちの仕事は貧困で仕方なくしているものじゃない
私たちは搾取されているわけじゃない
でも,藤田さんや他の活動家の投稿をみると,どうしても自分が社会的に「かわいそう」な仕事をしていると言われているようでつらい。
職業は自分の人生の一部です。生活のなかでかなりのウェイトを占めます。自分の価値観とも分かちがたく結びついている場合も多いのです。
その職業について偏見や蔑視が強まったというのは,その職業に従事する方の人生に対する偏見や蔑視が強まったに等しいものです。
これは性産業従事者に対する新たな「抑圧」ではないでしょうか。
抑圧された方を力づけて解放するためのソーシャルワークで新たな抑圧を生み出してどうするのでしょうか。
ソーシャルワークは免罪符ではない
ソーシャルワークが社会にとって大切な意義を持っていることは当然です。
しかし,ここまで述べた理由から,今回の岡村さん叩きは,ソーシャルワークのやり方としては,やはり不適切であったと考えます。
もしかしたら「それは真のソーシャルワークを理解していないからだ」と言われてしまうかもしれません。
ですが,岡村隆史さんを精神的に追い込んだり,職業に対する偏見が強まって抑圧された性産業従事者を生み出したりする「ソーシャルワーク」って何なのでしょうか。
そんなものが真のソーシャルワークなら,私は,私なりの新たなソーシャルワークを模索します。
社会を改善することは大切です。
困っている人を助けることも大切です。
ですが,そのために何をしてもいいというものではない。当たり前のことではないですか。
ソーシャルワークは「何でもあり」の免罪符ではないのです。
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2020.6.9 かんねこ