岡村隆史さんの発言を「曲げて」発信することはやめるべきである
はじめに
深夜ラジオでの失言をきっかけとした岡村隆史さんの騒動も,少しずつおさまってきている。数ヶ月後には,こんな騒動があったことさえ意識しなくなる人が大半の状況になっているだろう。
岡村騒動について思った私の所感はこのnoteに詳しく書いた。
一言で言えば,急先鋒に立って岡村さんを叩き続けた藤田孝典さんはやりすぎたと思う。
藤田さんの記事に習うかのように岡村さんを叩いた複数の“フェミニスト”の存在も確認できた。彼らには彼らの信条があるのかもしれないが,やはりやりすぎである。
「やりすぎ」だと思う具体的な根拠は先のnoteに書いたのでこれ以上は触れない。このnoteが多くの方に読まれる中で,複数の方から気になる反応をいただいた。
「岡村隆史さんは藤田孝典さんが紹介しているようなことは発言していない」
なんだって?
人の発言は簡単に歪められる
この反応は法律家としては検証せざるを得ない。
というのも,法律家は,人の発言が不本意にゆがめられてしまう,ということを嫌というほど知っているからだ。
例えば,検察官。ドラマ「HERO」で言えばキムタクが演じた役割である。
検察官は,犯罪を立件して,裁判所に「この人は有罪だ」と証明しなければならない立場にある。
検察官が被疑者(罪を犯したと疑われた人)を取り調べ,その者の発言を「調書」という書類にまとめる。被疑者はその「調書」に「間違いない」と押印するわけだ。
だが,実は,検察官が「調書」にした内容と,被疑者が本当にしゃべった内容にはかなりの「ずれ」が生じていることも多い。
検察官が,被疑者がしゃべったことのうち「この情報は有罪を証明するのに役立つ」というものをピックアップした上で,被疑者からクレームが入らない程度に少しずつ(場合によっては大胆に)ニュアンスを変えて「調書」に表現することもある。
話をわかりやすくするために「こんな例があるかもしれない」という意味での例を出したい。
自分の話したことがまとめられた「調書」に「死ねばいいと思って包丁で刺しました」と書かれていたとする。これに被疑者は驚く。
「そんなことは言っていません。死ねばいいとは思っていませんでした。」
だが検察官は言う。
「でもさ,こんな長い包丁で刺せば,普通は死ぬでしょ。それは分かってたでしょ?」
被疑者は答える。
「そ,それは確かにそうですね」
検察官はさらに言う。
「それ分かって刺したんだったら,死んでもいいと思ってたってことだし,もっと言えば死ねばいいって思ってたようなものなんだよ」
被疑者は答える。
「そういう意味なら,そうかもしれませんが」
検察官は言う。
「ね。そういう意味なら,「死ねばいいと思って包丁で刺しました」という表現は間違っていないでしょ?」
こうして,被疑者は「調書」にサインをする。
だが,この会話で出てきた「そういう意味」は調書には書かれない。
こうして,被疑者の言い分は「作られる」のだ。
もちろん,これはフィクション(※)だ。
だが,刑事裁判に限らず,このような意味での「言動の改変」は日本では頻繁にみられるように思う。そして,このような改変が頻繁にみられるものの一つに「ネット記事」がある。
※誤解のないように言っておくと,こういうことが「あり得る」という可能性の話をしているだけであり,およそ検察官がこういう誘導を行う,と述べているわけではない。ただ,もし読者が身に覚えのない罪で逮捕されたなら,少しだけこの話を思い出してほしい,とは思う。
岡村隆史を最初に糾弾した記事タイトルや見出し
岡村隆史さんを最初に糾弾した記事のタイトルはこうだ。
“「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」異常な発言で撤回すべき【追記あり】”
さらに,この記事の見出しは次のようになっている。
“岡村隆史「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」発言”
“女性の貧困化を待ち望み性的搾取を待ちわびる下劣さ”
この2つの見出しを総合すると,岡村隆史さんが積極的に「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」と発言し,また,岡村隆史さんが一般論として「女性の貧困化を(積極的に)待ち望」んだかのように読めてしまう。
では,藤田孝典さんの糾弾するこの「事実」は本当にあったのか。
結論から言えば,私は「なかった」と主張したい。
これまで,岡村隆史さんの発言についてはいくつかの論者によるネット記事が投稿されたが,いくつかの記事における岡村隆史さんの発言の取り上げ方は極めてアンフェア(不公正)であったと思う。
「場面」と「文脈」の大切さ
ここで,大切な一般論を述べておきたい。
それは,ある人間が発する「言葉」が何を伝えようとしているのかは,その「言葉」だけを切り取っても見えてこないことが多い,ということだ。
その「言葉」により本当に伝えられているものは何なのかは,①発言した場面,②発言の文脈(前後のつながり)によって大いに変わってしまうものなのである。
例えば,B男がA子に「お前が好き」と発言したとしよう。
しかし,その発言が恋愛感情の表明なのか,友情の表明なのかは言葉だけでは分からない。発言した場面,文脈(さらには声のトーンや表情)によって「好き」の意味するところは違うだろう。
映画やドラマにもなった有名な漫画に「DEATH NOTE」(大場つぐみ,小畑健)がある。
この漫画の主人公は夜神月(やがみライト)。
名前を書き込んだだけで人を殺せるノートを手に入れ,自分の価値観と事実認定を絶対的なものと思い込み,「世の中は腐っている 腐った人間が多すぎる」「(自分が動けば世間は)人として正しい生き方に気付き始める」などと意味不明な供述をし,自分で「悪い」と判断した人を片っ端から殺して世の中を「良く」しようと考えている,いわゆる「中二病」と言われても仕方のないキャラクターだ。
決めゼリフは「僕は新世界の神」(私見)。
一方,この漫画のヒロインは弥海砂(あまねみさ)である。
弥海砂は夜神月に恋をする。これに対し,月は海砂に恋もしてないし,愛してもいない。それは,この漫画全体を読めば明らかだ。
海砂は月に恋をし愛しているが,月は海砂を「利用している」というのが,海砂と月の関係性である。
注目したいのが,この漫画で月が海砂に対し「愛してるよ」と発言している部分があるということだ。しかし,この発言を捉えて,「ああ,月は弥を愛しているんだな」と理解する人はいないだろう。
この「愛している」発言は,海砂による「私,あなたの役に立ったでしょ?」という趣旨の発言に対する月の応答であり,海砂をこれからも利用し続けるために「とりあえず,海砂が喜ぶような言葉を投げた」だけである。
次の月の表情からも,月が海砂を愛していると理解することが間違いであるとわかる(「DEATH NOTE」(大場つぐみ,小畑健)8巻より引用)。
つまり,『ある人間が発する「言葉」が何を伝えようとしているのかは,その「言葉」だけを切り取っても見えてこないことが多い』のである。
「DEATH NOTE」の例はかなり単純なものであり,「そんな勘違いをすることはない。ばかばかしい!」と感じられるかもしれない。
だが,現実には,ある者の言動のごく一部が切り取られ,発言された場面や文脈が考慮されることなく「曲げられた理解」を受けて大バッシングになる,という例は少なくない。
私たちは,次のことに注意すべきであろう。
誰かの「言動」を切り取って批判するときには,切り取られた「言葉」が真実を伝えているのかということに。
このことを踏まえて,岡村隆史さんの発言を検証していきたい。
①発言した場面について
今回の騒動については「公共放送なのに酷い発言をした」という批判も目立った(私も,前回のnoteでこれに類する表現を使ってしまっているため,この傾向は私にもあてはまるといえる)。
とはいえ,「公共放送」といってもさまざまなものがある。
具体的に岡村隆史さんがどのような場面で発言をしたのかは十分に知っておく必要があると思う。
岡村さんの発言がなされた場所は「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」という深夜ラジオ(1:00~3:00)である。
この時間帯であれば,ラジオを聞く者は岡村隆史さんのファンを中心に一部に限られると思う。
もちろん,「深夜」とはいえラジオ放送に公共性があることは確かだし,「何でも言っていい」というものではない。
だが,昼間やゴールデンタイムの放送に比べると,放送の「公共性」はかなり薄まるのではないかとは思う。
次に,「深夜」ラジオであることは知っていても,岡村隆史さんの発言が,具体的にラジオのどのコーナーでなされたかを知っている人がどれくらいいるだろうか。
批判を受けた発言がなされたのは「WET STREAM」というコーナーであり,FMの音楽番組である「JET STREAM」のパロディとして作られたものである。
番組ウェブサイトには,次のように説明されている。
「FMっぽい感じのコーナーですが,こちらは『最近あった性にまつわる嫌な出来事』のハガキを送ってもらうコーナーです。相談には一切のりませんが,FMっぽくいやします。」
つまり,「深夜」に「性にまつわる嫌な出来事」に関するリスナーからのハガキについて「相談には一切のりませんが,FMっぽくいや」すことが前提のコーナーである。「いやす」のであるから,リスナーを責めることは想定されていないだろう。
WIKIPEDIAによる情報なので情報の精度はわからないが,「2017年11月30日放送分からは番組出演を希望する風俗店勤務の女性(番組では「お嬢」と呼ぶ)に電話を繋いで直接話を聞く時間を設け,2019年2月28日放送分からは男性従業員の応募も可能となった。」とされている。
つまり,風俗の話を岡村隆史さんがする可能性は,この番組においてはもはや当然の前提となっていた。
岡村隆史さんの発言がこのような性質を有するコーナーでなされた,ということをまずは理解しておきたい(なお,念のため指摘するが,このようなコーナーが設けられていることについて,演者である岡村隆史さんを批判するのは的外れだ。コーナー設置の責任者は放送局である。)。
岡村隆史さんを執拗に叩き続ける論者は,このような「場面」での発言であったことを殆ど(あるいは全く)記事に書かない。どのような「場面」での発言であっても関係がない,という立場なのかもしれない。
しかし,このnoteの読者はどう感じたであろうか。
上述した「場面」での発言であることを知っても,「公共放送であの発言はとんでもない!謝罪しても許さない!」などと岡村隆史さん個人を責め続けたくなったであろうか。
少なくとも,「場面」を具体的に知っているかどうかで発言の「印象」が変わった者はいるのではないか。
②文脈について
次に,文脈(前後のつながり)についても検討することが必要である。
岡村隆史さんは,ラジオ番組で取り上げられたリスナーの次のハガキに対して回答した。例の発言は,その回答の中で出てきたものである。
(リスナーのハガキ)「コロナの影響で今後しばらくは風俗に行けないし女の子とエッチなこともできないと思うので思い切ってダッチワイフを買ってしまおうかと今真剣に悩んでいます」
リスナーのハガキの内容は,①コロナの影響で,②性的なことができない,③真剣に悩んでいるといったものである。
前述したコーナーの趣旨から考えて,岡村隆史さんは番組上の役割として,このハガキの送り主に対してFMっぽく癒やすことが求められていた。
岡村隆史さんの発言全体を読めば,岡村さんが伝えたかったことは,
「コロナが収束したら面白いことがあるから今は頑張って我慢しよう」
というメッセージであることが明らかだ。
番組が放映された4月23日と言えば,緊急事態宣言が発出され,ちょうど徹底的な外出自粛が求められていた時期である。これによりストレスがたまっているリスナーも多かったはずだ。
岡村隆史さんのメッセージは,このようなリスナーを励ます目的で発せられたということを理解しておく必要がある。
藤田孝典さんの記事の見出しにおける岡村隆史さんの発言は「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」と『要約』されている。
だが,この要約では,何の脈絡もなく岡村隆史さんが「コロナ収束後に貧困女性が風俗業に従事することを楽しみにしている」と発言したかのように誤解されてしまう。この要約では,下手をすると岡村さんが「どんどん貧困女性が増えろ」と待ち望んでいるかのようにも理解されかねない。
言うまでもないが,岡村隆史さんは,そのように発言したものではない。
ただ,ハガキを送った悩めるリスナーに対して「そういう面白いこともあるから今は我慢しましょうよ」とエールを送ったにすぎない。
確かに「面白いこと」という表現は確かに使われているが,岡村隆史さんにとって「面白いこと」というよりは,ハガキを送ったリスナーにとって「我慢すれば君にとって面白いことがあるよ」という文脈でこの表現が使われているのである。
社会福祉士のアプローチとして「ミラクル・クエスチョン」というものがある。
「この問題がこのように解決したらどう思いますか」などと言って悩みを抱えたクライアントに対して「問題解決後の状況」をイメージさせる質問のことである。問題解決後の状況を想像させれば,悩みを持つ者は多少元気になる。そのための質問である。
岡村さんの発言は「ミラクル・クエスチョン」と同じ機能を持っていると感じられた。悩んでいるリスナーに対して「コロナが収束したらこういういいことがあるよ。だから我慢しよう」と投げかけたのである。
あくまで,悩んでいるA君(リスナー)に対して,悩みを聞いているB君(岡村さん)が「こういうことがあるから,我慢しよう」と言ったというのが今回の文脈の全てであり,それ以上でも以下でもない。言ってしまえば,公開カウンセリングに近い。
もちろん,「一般論として」岡村隆史さんが積極的に女性の貧困を「待ち望」んでいると発言したわけでは全くない。
今回のラジオ全てを聞いて,岡村隆史さんの発言から「女性の貧困化を待ち望み性的搾取を待ちわびる下劣さ」を感じたとすれば,自分の日本語読解力を本気で心配した方がいい。もし,国語のテストで「この発言をしたときの岡村隆史さんの気持ちについて最も適切なものを選べ」という問題が出たら,かなりの確率で不正解を選んでしまうだろう。
文脈を十分に考慮せずに,あたかも岡村隆史さんが積極的に「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」と発言し,その発言がまるで岡村隆史さんの人格の下劣さの発露であるかのようにWebメディアでまき散らすことは,社会問題の解決に全く役立たないどころか,メディアの読み手に「著名人の発言はいくらでもニュアンスを曲げていいんだな」という誤解を与えることにさえつながり,極めて有害な言論であると言わざるを得ない。
おわりに
ここまで,①発言の「場面」,②文脈について考察してきた。
このような場面や文脈を何ら説明することなく,岡村隆史さんが「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」と「要約」した上でその言論をまき散らすことは許されない。「要約」した内容と実際の発言に相当のニュアンス上の差があるからだ。
一般論として言えば,「要約」の内容が実際の発言とあまりにずれすぎていると不当に著名人の名誉を低下させたとして損害賠償請求の対象となることもある。著名人の言動に関連して社会に問題提起する言論人は十分に注意されたい。
もちろん,ある言論に対する批判は,それが名誉毀損や侮辱といった法律で違法とされる内容でない限り,正当な言論活動として許される。
だが,岡村隆史さんを批判するなら,正々堂々と,発言の場面と文脈を「できる限り正確に」記述したうえで,なぜそれが許されないのかを語るべきではないだろうか。
あたかも,会社の物品を横領した会社員に対して相当な範囲で叱責した上司Aのことを,文脈を説明せずに「上司Aは会社員に対してひたすら怒鳴り続けた。これはパワハラだ!許されない!」と叫ぶような愚を犯してはならない。
そして,ネット記事の読み手の立場に立った場合にも,著名人等の言動が紹介されていた場合には,「本当にこんな言動があったのか」と疑う眼を持つことを忘れないようにしたい。少なくとも,私は今回の騒動で,そのことを強く意識するようになった。
(了)
かんねこ 2020.5.16