見出し画像

つけめんヒストリ エピソード2


赤飯事件

栄龍軒の青木甲七郎(あおきこうしちろう)の世話で、見合い結婚した坂口正安(さかぐちまさやす)と光枝(みつえ)の間に昭和28年、長男勝正(かつまさ)が生まれた。
橋場町で正安と山岸一雄(やまぎしかずお)が大勝軒を開店してから2年が経過していた。
特製もりそばが誕生する2年前のことである。


山岸一雄17歳 昭和26年橋場町の中野大勝軒前で



画像6
画像6
 御祝い控帳 青木兄弟の名がある

         

青木兄弟ら丸長店主からも着物、ケープ、前掛け、玉子などの御祝いを頂き、そのお礼にと赤飯を炊いて配ることになった。
店の営業後に正安が赤飯の仕込みをすることになり、一雄は先に二階で寝ていた。
二階の部屋といっても店内の土間から梯子を掛けて上がる、わずかな広さの屋根裏部屋である。 
一雄がふと目を覚ますと、何かの焦げたような臭いがした。
階下から煙らしきものが上ってきている。
正安は隣で寝ていた。

「あれ、なんだろう•••? 」
「えっもしかして」

慌てて梯子を降りると店内には煙が充満して調理台のコンロの鍋が焼け焦げていた。
一雄は素早く火を消し止めて、入り口の戸を開け天井のプロペラ換気扇を回した。

「ふぅー、兄貴ー、大変だよー赤飯がぁー」

正安が梯子から転げ落ちるように降りてきた。
コンロの前で茫然として立ち尽くし、蒸籠の中を見てがっくりと肩を落とした。
二人ともしばらく声も出なかった。

「ふ~まいったよ兄貴、寝ちゃってたんだね」
「ああいつ寝たのかも覚えてない」
「焼酎飲みすぎたんじゃないの」
「まいったな、こんなことになるとは」
「大変なことになるとこだった、もうちょっと遅ければ火事だったよ」
「鍋の水が足りなかったわけじゃないが」
「しっかりしてよ兄貴、兄貴らしくない、疲れてるんだよ、無理が祟ってこんなことに」
「勿体無いけどこの赤飯じゃもうダメだな」
「赤飯はもうしょうがないけど、それよりも火事にならなくてほんとに良かったよ」
「ああ、焼酎が効いて、つい眠くなっちまった。ちょいと一眠りしてすぐ起きようかと思っていたんだが」
「赤飯はまた作ればいいしまた後日用意するということにしたらどう?」
「そうだな、そうするほかないな、年明けにでもまた改めて作り直すか」

仕事が終わると、正安は好きな焼酎を毎晩嗜んでいた。
小豆を煮るのに時間がかかり、眠気が襲って鍋の火をつけたまま寝床に入ってしまったのだった。
幸いに一雄が目覚めたことで大事に至らずに済んだ。
同じ屋根の下で30数軒の店が連なっている橋場町マーケットは、ベニヤとタールの簡素な建屋で作られていた。
一旦火の粉があがれば容赦なく燃え広がる。
気付くのが遅ければ、空焚きの火の粉が壁、天井に燃え移って2階にいた二人の命はなかった。

「このことは長屋の皆んなには言えたもんじゃないな」
「ああそうだね、まあとにかく二人無事でよかったよ、命あっての物種だよ」

闇市は戦後の焼け野原にテキ屋の地割り露店から発展して木造長屋になり、都内主要各駅に点在していた。
しかし火災による焼失と再興を何度も繰り返してニュースになっていた経緯がある。
ここ橋場町のマーケットはテキ屋では古い歴史のある野原組の管理下にあった。
野原組は他にも中野駅前また新宿東口武蔵野館近くなどにあり、親分はいつもハーレーダビッドソンのサイドカーに乗って橋場町に顔を見せていた。
もしもマーケット全体が焼失されてしまったら、別の棟で寝泊まりしている光枝と勝正の身も危険に晒されただろう。
そう思うといたたまれない正安だった。
この赤飯事件があって、正安は一刻も早く家族が安心して暮らせる環境での商売を決心した。
翌日正安は一雄に話しかけた。

「ここでの商売は辞めて、よそでやったほうがいいと思う。環境もあまり良いとは言えんし」
「そうだね、俺もそう思っていた、それがいいよ。探せばどこかいいとこがあるんじゃないかな、勝坊も生まれたことだし、姉さんもそのほうが安心するだろう」
「この店はどうする」
「どうするって、そりゃやらなきゃ、閉める事はない、この店は俺がやるよ」
「大丈夫か」
「なんのことはないよ、もう仕事も慣れたし」
「そうか、そうだ一雄、年明けにでも朝のスープを作ってくれ、そばは俺が作るから、そのほうがいい」
「俺もそう思っていたんだ、ずっとそばを作ってきたから一通り他の仕込みをやっとかないと」
「節ちゃんは田舎から年明けに来れそうか」
「ああ来ると思うよ、節子に身の回りの世話をしてもらえればなんとか大丈夫だよ。キヨさんも田舎から出てくるというし、あと一人ぐらい助っ人がいればいいけど」
「そうだ光枝の弟の重信にも声をかけてみよう、来年中学卒業だからちょうどいいと思う」

正安がいなくなってからは後年に農大前(後に喜多見)、向ヶ丘遊園(後に中之島)に独立する一歳下の宮入清(みやいりきよし)と光枝の弟、山本重信(やまもとしげのぶ)の3人で店を回すことになる。

画像5
 正安 代々木上原大勝軒開店時

         


一雄の気概       

赤飯事件後物件を探し始め、昭和29年二月に店を開店する運びになった場所が代々木上原で、小田急線新宿から各駅停車で4つめの駅。
当時はまだ千代田線の相互乗り入れはなく、急行も止まらない普通の住宅地の駅だった。
駅周辺は低地で、北の幡ヶ谷への坂と南の目黒へ至る坂の間に位置する。

橋場町大勝軒は一雄に一任されたが、彼はまだ弱冠20歳であった。
正安のそれ相当の信頼がなければこの若者に、店の一切を任せることはなかっただろう。
栄楽から四年を経て一通りの業務をこなし、信頼に応えるだけの気概と実力が既に一雄にはあった。
早く父を亡くしてから病弱な母を抱えて家族は家計が苦しくなり、中学時代はクラスの中でただ一人金銭的な理由で修学旅行に行けなかったという。
上京してからは毎月母に仕送りをするなど、家族の長として同年代の若者よりも責任感が強かった。
故郷の山ノ内から上京した宮入清キヨさんに山本重信シゲの二人も一雄より年下でまだ10代であった。

昭和29年頃中野大勝軒の前で右宮入清


彼らのお客さんに対する人情と、食べ物商売の宿命ともいえる今日よりも明日旨いものを創る気概は、大勝軒の伝統として後々受け継がれていくことになる。
特製もりそばの他にカレー風味そば、玉ねぎそば、もやし焼きそばなどを次々と試作し、お品書きに載せていく事になる。
仕事は早朝から夜中の1:30まで、出前も広い範囲で行い、定休日は月一回という過酷な労働だった。

休みの日の唯一の楽しみは皆で映画を観に行くことだった。
映画館は駅前に中野東映など、鍋屋横丁に城西館、オデオン座など数件あり洋画、邦画問わず一日で数館はしごして観る日もあった。
ある日映画を観た帰りに一雄が咳き込んで血を吐いた。
検査の結果、結核の疑いがあった。
正安は心配して代々木上原の新しくなった店の二階でひと半月ほど休ませた。
栄楽の修業時から、何を食べてもお腹を壊したことのない偉丈夫だと兄弟子たちに揶揄われていた一雄だったが、開店時からの無理な労働が原因で風邪をこじらせたらしい。
その後容体は良くなり無事仕事に戻ることが出来た。
同じように正安も代々木上原の店を開店して間もなく結核にかかり、別人のように痩せて不養生では数年しか持たないと医者に言われ、3年間酒とたばこをやめて薬を毎日飲み続け、回復した。

 

 昭和34年頃 江の島にて 後列左正安 四人目一雄  

            


特製もりそば

通称ナベさんという薬問屋の常連客が、頻繁に中野大勝軒に顔を出していた。
いでたちは違うが話好きで気さくな性格が、さながらフーテンの寅さんこと車寅次郎の雰囲気を持っている。
世間話の好きなナベさんは、毒気はないが扇子を片手に執拗に口を開く。
一雄といえば嫌な顔一つせず、仕事しながら相槌をして彼の話の相手をしていた。
誰の気持ちでも受けとめる。
彼の持って生まれたものなのだろうか、人懐っこい魅力が客を惹きつけていた。
その反面仕事に対しては妙に生真面目であった。
郷里山ノ内で中学時代に同級生だった永福町栄龍軒の下田和泉(しもだいずみ)によると、「あいつはくそがつくほど真面目だった」ということである。
初夏のある日、ナベさんがのれんをくぐった。

「いやー、今日も暑いねぇ、あれ今食事かい?何食ってるの」
一雄が小鉢を手にして、そばを口に運んでいるのを見てナベさんが声を掛けた。

「まかないのそばですよ」
「いや、そばはわかるけどさ」

六畳に満たない店の中で店員のすることはすべて客に見えてしまう。
変わった食べ方をしている一雄に目が向いたのだった。

「もりそば風中華そばですよ」
「へぇうまいの?おれにも食わせてよ」

一雄は小鉢に焼き豚、支那竹、海苔、刻みネギと少し多めの返し(醤油だれ)を入れ、これに味の素、砂糖、酢、七味を加え、熱いスープを注ぎ入れた。
茹で上がったそばは、ザルで掬われて水道水でぬめりを除いて盛られた。
こうして冷えたそばと熱いスープをカウンターに差し出した。

「付けて食うんだね」

ナベさんは箸を手に取り、盛られたそばをスープに浸しズズーと音を立てて食べ始めた。

「うーんなるほどこりゃーうめぇ、いけるいける」

冷たいそばの清涼感と熱い醤油スープ、この二つの斬新な組み合わせが初めての体験だった。
酢を少し効かせることで、暑い日にもあっさり食べられる。
それからナベさん来店時には必ずこの賄いを一雄に頼んで作ってもらうことになった。

当時の夏はエアコンなど存在しておらず、部屋を閉め切るのではなく戸を開け放しにしてヨシズを掛け、風にあたるなどの工夫で暑い日々を過ごしていたが、厨房内は高温となり、体感の労働量は倍に増える。
その環境下で、賄いの熱い中華そばを食べていたのでは余計に汗が出て嫌気がさしてしまう。
従業員の休憩時間の決まりなどは無く、また仕事中にゆっくりと昼食時間をとる習慣なども無い。
腹が空いたら賄いを食べてまた直ぐに仕事に取り掛かる。
冷やし中華は宗田鰹でだしをとったタレを寸胴に入れ、これを水道水を貼ったタライで冷却するのに半日かかるものだった。
代々木上原では風呂場でタレを冷やすスペースもあったが、ここではそんな場所もない。
冷し中華の手間を考えればこの賄いは手軽にたべられる。
ナベさんの強い勧めもあり、店のメニューで提供することになった。
価格は中華そばよりも高めに設定し、太い短冊にお品書きを書いた。
昭和30年、価格40円の特製もりそばの誕生である。


竹の子つけそば


もりそばとかけそば

GHQは終戦直後、日本人が屎尿を畑の肥料として使うのを目の当たりにして驚愕したらしい。
在留米軍からの指示でタンク内を真空にして、外気との気圧差でし尿を吸引する屎尿処理用の特殊車両、バキュームカーが製造された。 
バキュームカーの存在は当時の日常の風景だった。
屎尿を月に数回ほど引き取りにくる職員らが店に通っていて、マーケット一帯の裏手の公園内に建てられていた便所小屋施設の処理をしていた。 
マーケットの各々の店にトイレはなく、ここで暮らす全世帯がこの共同のトイレ使用していた。
「都の人」という呼び名を使っていたが、実際は東京都の職員ということではなく汲み取りの会社の職員である。
この清掃職員や土木作業員、テキ屋などの人々に口コミで特製もりそばの噂が徐々に広まっていった。

そばは汁に浸して食べるのが日本の本来の型であった。
香りを楽しむように汁に少しだけ浸す食し方が江戸っ子の間で粋だと云われていたりする。
しかし江戸時代元禄のころ、威勢のいい人足達がそのままそばに汁をかけて食べることを善しとした。
これがぶっかけそば、かけそばという呼称の発端になる。
人足たちで始めた食べ方が庶民に広がり、お品書きが定着していくことに。
同じように橋場町大勝軒の特製もりそばも、汲み取り作業員や土木作業員によってこの食し方が世間へ拡散したのだろう。
そういえば昭和50年代、つけそばの黎明期につけたれをそばに全部かけてしまう客がいた。
せっかちな人は少しぬるくなったスープで食べ易い麺を欲しがるのだろう。元禄でかけそばが誕生してから、以前の茶碗汁に浸す食し方を何と呼称すればよいのかという問題がでてくる。
これをもりそばとしたのである。
古来から離れていたそばとかえしが元禄で合体し、はたまた昭和の中華そばでまた別れることとなった。

一雄から聞いた新商品特製もりそばに正安は最初懐疑的だった。
というのも栄楽のころからそのような食べ方があったが、売れ残りそばを賄として片手間に食べるもので、わざわざ茹でたそばをまた冷やしてさらに盛り付け客に提供するのでは、手間が増えることと水道代がかさむなどの理由で感心しなかった。
栄楽で始まった商売のスタイル、丼ひとつで簡素にできる中華そばに固執していた。
まさかこの新商品が店の未来を決定し、後に丸長のれん会へと伝わり、十数年後に中華そばを凌駕する売れ行きの大ヒット商品になるとは夢にも思わなかったのである。






いいなと思ったら応援しよう!