久しぶりにテレビをちゃんと見た話し~イギリスの学校のドキュメンタリー~
こんばんは
ゆきむです。
今日は先週の華金の夜にテレビを見入ってしまった話
私は基本的にテレビは見ない
見ると永遠にそこでダラダラしちゃったり
情報がたくさん入りすぎるのが苦手だからだ
ただ、その日は久しぶりにリビングのソファに座って
NHKをふとつけていたの。
そしたらこんなドキュメンタリーが流れていた
正座してみてしまった
泣いたし笑ったし改めて考えさせられた
多様な人種の生徒が通うロンドン南部の中学校が舞台で
生徒たちが3週間の「人種差別をなくす実験授業」に参加するというもの
こういうのに興味ある人って少ないのかもしれないけれど、
私は「多様性」とか「違い」とかそういうワードがあると
学びたい欲が爆発してしまう。
これはなんかもう性格なんだと思う
大学の時、世界とか多様性とか人権とかに興味があって
黒人文学を勉強したり
人権やジェンダーの授業ばっかりとったりしてた
今自分が子どもたちに異文化理解のクラスひらいてたり
大人向けにSDGsの講座やっているのも
結局、英語とか言語を教えることに興味あるのではなく
いろんな人に自分とは違う誰かのことを理解しようとする
楽しさやおもしろさをしってほしいからかもしれない
詳細はぜひ見てほしいんだけれども
ひとまずこのドキュメンタリーが良すぎたので
今日はそこで学んだことをメモしておきます。
① Color Blindness(カラーブラインドネス)について
昔、アメリカで黒人や白人以外の人種とカテゴライズされる人たちへの差別が横行していたころ。。。
人種差別を撤廃するために生まれた
「人種という概念に対して盲目になる」→「人種という概念をなくす」→「差別がなくなる」
という考え方。
(間違ってたらすみましぇん)
前まで良しとされていた考え方だったんだけど今では逆
みないようにするのはその人のバックグラウンドをなかったことにすることだってことで、ちゃんとその人自身のらしさを理解したうえで接することが大切とドキュメンタリーの中で言っている。
Color Blindnessについてどうというよりも
こうやって時代をかさねることで
昔までの普通や良いとされていたことは
簡単に覆されてしまうんだなと
ふつうとか常識って単なるその時代のスタンダードの指標だったりするんだなとふむふむとしました
② あえて人種をわけてディスカッションをする
ドキュメンタリーのなかであえて先生たちは、子どもたちを白人系と非白人系グループにわけます。(あくまで子どもたちの意思でわかれていきます)
そのグループの中でディスカッションをします。
非白人系グループの生徒たちは笑顔を浮かべて、踊ったり歌ったりしながら自らの民族性を話しているのに対して、白人グループはお通夜状態。
そこで先生が次のように質問します。
「白人であることが何を意味するか、これまで考えたことはありますか?」
これに対して、ある女子生徒は
「白人ってことはあんま重要じゃないです」
と答えました。
ある白人の男の子が、楽しそうな非白人系集団とお通夜状態の自分のグループを比べて言いました。
「あっちのグループは、みんなとっても楽しそう...でもそれは僕たち(白人)がそのグループにいないからなのか、それとも別の理由があるのか....わかんないよ.....」
この後グループは解散して生徒たちは集合し、感想を共有しました。
しかしこのセッションで、ヘンリーは「ちょっとうらやましいよ」と涙ながらに述べ、教室から出て行ってしまった。
あえて人種をわけてディスカッションさせることで
子どもたちの心がどんどんゆさぶられていく姿が印象的でした。
ドキュメンタリーの中で子どもたちがこういう経験を経て
最終的にクラスの人種差別的傾向はどんどん少なくなっていきます。
こんなストイックな経験、私たちはしてきただろうか?
イギリスと日本ではかなりダイバーシティが違いすぎて比較対象にはならないけれども、差別問題にかかわらずこういう少しパンチの効いた+道徳的な経験を私たちはどれだけしているだろう?
机に置いてある教科書でもしかしたらそれは教えられているのかもしれない
親や先生からたくさん教えられているのかもしれない
でも、日本に生まれて日本で育った子どもたちが
こんなパンチの効いた経験する機会がどれだけ転がっているのだろう?
このドキュメンタリーを見入ってしまったのは
「子どもたちに今、こういう経験をさせてあげたい」
と思ってしまう自分がいるからなのかもしれない。
今度、私は子どもたちに「難民」について
考え・アウトプットする時間をつくることになっている。
ここでどれだけ子どもたちにその時間を経験として提供してあげられるか
もっとねりねりしようっと。
ではでは。