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『デュルケム「自殺論」を読む』を読む(安楽死考#2)

デュルケムの自殺論。

現在自分の中でもやもやしているテーマのひとつ、〈安楽死〉について考える材料になればと思い読んでいったところ、♪BINGO♪でした。
(デュルケムに関しても社会学に関しても基本的な知識がないので、訳者の方が書いた本なら間違いないと判断して、岩波セミナーブックス、講義形式のこちらをセレクト。)

それにしても、本ってすぐに買えなくなる…(涙)
けど図書館にはたいていあるので(ありがとう)、ブックオフオンラインで入荷待ちしつつ、とりあえず市立図書館で借りて読んでいきます。

こちらは購入可能↓




前回#1でも触れた通り、自殺と安楽死はもちろん異なるものですが、人が「もう生きていたくない」という考えを持つようになる、という点では共通する部分がありそうです。

今回は概要メモ回ですので、#3まで飛ばしていただいても大丈夫ですよ👍では参ります。

▓デュルケム : 1858-1917  フランスの社会学者
  ラビ(ユダヤ教の律法学者)の家に生まれる
  (ただし、本人は少年の頃にユダヤ教を離れた)
  ボルドー大学、ソルボンヌ大学の教授を務める

◇時代背景としては…
・急速な資本主義化
・社会主義思想の登場、大衆民主主義の出現
・伝統的な宗教の、社会への影響力が衰退

◇デュルケム社会学の魅力とは…
・社会生活の主観的側面に注目した
  「主観的に経験される社会、その社会が個々人にもたらす意味」に対する鋭い感性
・社会変動を理解しようとした
  固定的な社会秩序ではなく、秩序がどのように変化し交代していくかに関心

◇デュルケムの「個人主義」㈠ 
デュルケムは、近代社会では個人の自立化と社会的依存が並行的に進むと考えた。そして分業の発達がそういう過程を進行させる、と論じた。

「個人は、みずからを他者から区別する個性的な相貌と活動力とをもっていて、その区別されるかぎりにおいて他者に依存し、したがってまた、そうした結合から生じた社会に依存するから社会化されるのである」(二二〇頁)。

「個人は、みずからではけっして自足的ではない。だから彼が自分に必要なもののいっさいを受けとるのは社会からであって、それは、あたかも彼が労働するのは社会のためであるかのようである。その結果、個人がおかれている依存状態についてきわめて強力なある感情が形成される。すなわち、彼は、自分の価値を正当に評価すること、いいかえれば、みずからを全体の部分としてのみ、有機体の一器官としてのみ、みることになじむ」(二三二一二三頁)。

デュルケム『社会分業論』(『デュルケム「自殺論」を読む』より)

こうして相互依存が高まっていくと、一つの道徳意識が生まれると彼は考えた。
しかし、現実には分業が社会的連帯を生み出していない。個人主義の変質が起こってしまっている。この変質が、自殺の増加と深く関わっているのではないか…?

◇自殺について
19世紀、自殺研究が(主に医師により)始められたとき、暗黙の前提として、自殺とはなんらかの精神・身体的決定論の下におかれた(つまり、遺伝等の原因による)正常でない行為とみなされていた。
デュルケムはそれを否定。
自殺をその原因から主に3種類に分類した。
  ①集団本位的自殺
  ②自己本位的自殺
  ③アノミー的自殺
 (アノミー的自殺の亜種として、④宿命的自殺も。ここでは割愛。)

①伝統的な規範に基づく(古い)社会で、たとえば
老人・病者などが共同体の習いや掟に従って自死する場合や、首長の死にともなう臣下や家来の自死、など。

②【個人の孤立化・原子化によるもの】
近代社会において、個人は集団に埋没している状態から離脱して、より自由に・自立的になる。それが極端にまで進むと、個人の意識は周囲のものを遠ざけ、自己以外の価値基準を持ち得なくなり孤立する。
この「常軌を逸した」孤立的な状態におかれた個人は、なんらかの衝撃が与えられると自殺に走りやすくなる。

③【功利主義的な個人主義によるもの】
「アノミー」とは、カオス状態、もしくは規範のない(弱まった)状態をさす。
資本主義市場経済が人々の欲望をかきたて、刺激している。また同時に、進歩を道徳的な価値とし、物質的な幸福を価値あるものとする新しい道徳が強まってきた。それらが相まって、欲望の異常肥大化が急速に進んだ。
諸個人は欲望の充足をつねに目指し行動するが、永久に完全な充足に到達することはできないので、不満は止むことがなく、疲労感、焦燥感、幻滅感が募り、自殺を引き起こしやすくなる。


◇デュルケムの現代社会批判
・アノミー批判
生産力の増大=富の増大は、はたして人間の幸福の増大と言えるか?
経済の急速な発達が強迫的な充足願望をつくり出しているが、この充足願望がかえって人々を苦しめる重大な原因になっていくのではないか。
 →「進歩」至上主義への疑問

・社会的連帯感の不足
人々に連帯感を与え、共同体の感情を与えるような社会的なきずなが欠けている、あるいは関係というものが功利主義化している。(関係のなかにあって人と人との関係が精神的なつながりをもたず、人が人をもっぱら手段として利用する関係が優位していく。)


◇デュルケムの「個人主義」㈡
個人主義そのものが問題というわけではなく…
近代社会は分業を進展させる→人々を専門化する→専門化することで人々を相互に異質化する→個人は同時に自立的な存在になる。
異質化し、自立化していった個人を相互につなぐ共通の、そして普遍的な規範とは?→個人の人格を神聖な価値として考える個人主義である。

この個人主義はなかなか理解しにくい面がありますが、私なりに申してみますと、一つの特徴は、個人の人格の尊厳というものをだれもが尊い価値として認めること、そして、それがあらゆる個人に共有され、普遍的で、それ自体が非個人的な価値になっていなければならないという点です。それは利己主義ではありません。むしろ逆に、近代社会において人々を連帯させる原理でなければならないということです。

(略)

この個人主義を、そこに含まれている理想を多少キーワード化して特徴づけてみたいと思います。かれが定式化したかったのは、自立的でありつつ、かつ連帯的な個人を可能にするような個人主義、個人の自由、生存や所有というものの権利を認めながら、社会的な共同性とか公正をそれと両立させる主張としての個人主義、そして、社会の連帯を可能にしつつ、かつ国家の超越化を阻止するものとしての個人主義ではなかっただろうかと思うのです。

『デュルケム「自殺論」を読む』


以上、概要メモでした。

自殺からはすこし外れますが、感想を少し。

個人主義が良くない(自殺などが起きる)っていう話になるのかな?と考えてしまったが、全くそうではない結論なのですね。つい昭和の日本人的な、陳腐な発想をしてしまっていたわ。
個人主義を極めることは、個人の尊厳をすべての人に認めることになり、利己主義とは逆の連帯をもたらす!!すごい。

「連帯」とか言うと全体主義的なイメージが浮かぶ。没個性的な人々が、上から言われたことに何も考えず従っているような…。でも、それは同調であって連帯ではないのね。自立した個人だからこそ、相手も個人として尊重し、連帯することができるんだな。この考え方、好きです。

自殺の3分類、デュルケムさん的には、たぶん②と③がメインなのかなと思いますが、、、
わたしとしては、①の集団本位的自殺、これがとっても日本人的な気がしているのですよ…(((((;゚Д゚))))コワイヨ-

というわけで、次回#3では集団本位的自殺についてみていきます。
(自己本位的&アノミー的については、機会がありましたら。)


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