デュルケムさんと没個人主義(安楽死考#3)
では、デュルケム『自殺論』で挙げられている、自殺の3種類の分類のうち、「集団本位的自殺」についてみていきます。
はい。
要は、古代帝国の皇帝が亡くなったときに、側近や妻が殉死した…みたいなケースが想定されているようです。
実際、『自殺論』本編のほうには、「未開社会の構造云々」というくだりがあり、インドや日本(笑)の例が示されています。未開社会ね…。何せ、19世紀・帝国主義・フランスなんで。
少し脱線しますが、ここの分析もおもしろくて。
家来と主人の例で言うと、
家来が主人よりも生き延びてはならない理由は、家来と主人のあいだにきわめて緊密な従属関係があり、双方を区別するという観念を排しているからだと。主人の行くところにはたとえあの世へでもいっしょに供をしなければならない。もしそうしなければ、社会的従属関係もそのままではありえなかったはず(!!)と。
たしかにーーー。
この殉死は、現世の秩序を維持するために必要なわけだ。
閑話休題。
これって、いわゆる未開社会の話、昔の話ね〜、と、流していいのかな。
ちょっと待って。
以下を読むと、これってじつはある意味、現代社会そのものとちゃうのん?と思えてきますよ。
おっと。急に、安楽死の話に接近してきた感が。
「生きるに値しないような生に恋々とすべきではない」なんかめっちゃ聞いたことありませんかね…。
こういう価値観を醸成しようとする人たちには、いったいどんなメリットがあるのか、よく考えるべき。
さて、じつはデュルケムさん自身も、このカテゴリーの自殺はもう我らが先進国、おフランスにはありませんのよ、と言っているわけではありません。
当時のフランスでは、軍隊における自殺の多さが問題になっていたようで、軍人の生活はこの「集団本位的自殺が慢性化している特殊な世界」と書かれ、けっこうな紙幅が割かれています。
デュルケムさんいわく、
軍隊の兵士の状態として、
命令を受けるや否や、我が身を犠牲にする覚悟をしていなければならない。つまり、自分の人格や価値をあまり主張しないように訓練される。平時でも、軍の規律に文句を言わずに、ときには納得がいかなくても服従しなければならない。
一言でいうと「兵士は自分の行為の準則を、自分の外側にもっている」ということで、それは集団本位主義の状態にほかならない。(『自殺論』より)
受動的服従、絶対的従属、すなわち没個人主義。
…これって、学校?それともブラック企業?
集団本位的自殺の支配的なところでは、人はいつでも生命を放棄する用意をしているが、そのかわり他人の生命をそれ以上に尊重しようとしない、とのこと。
つまり、死に対するハードルが下がりまくっている状態で、そこになにかもう一押しがあると大変危険ということでしょうか。もちろん、最後の一押しをしないことも大事だけど、まずは普段の状態をもっと安全なものにしなくては…。
さらに、考えていきます。