感想文「クチュクチュバーン」
感想文「クチュクチュバーン」吉村萬壱
この作品は、著者の吉村萬壱さんが2001年に文學界の新人賞を受賞された作品です。
この単行本には、「クチュクチュバーン」「国営巨大浴場の午後」「人間離れ」の短編三作が収録されていて、どの作品もはっきり言って気持ち悪くなる覚悟がないと読むことができません。
「クチュクチュバーン」では人間が異常な進化を始めて、腕がメキメキと体から何本も生えてきたり、他の生物と合体したり、生物以外の家具や日常の道具とも合体したり、または、退化して性器だけになったりと、まともな人間の姿をしたものが一切でてきません。
「国営大浴場の午後」「人間離れ」の二作は、いずれも地球に、ある日突然、宇宙から二種類の謎の生物が飛来して、人類を危機的な状態に陥らせるという内容です。
どの作品にも共通しているのが、人間が自分たちでは抗えない極限状態から、さらにそれを超えたところまで追い詰められていく様を描いることです。
クチュクチュバーンでは異常な進化。人類のちからでは抗えない生物的な問題。残り二作の「国営~」と「人間離れ」では、飛来した無数の原始的な宇宙生物によって人類が駆逐されていきます。
これらの作品は、SFではなく、文学作品です。
自分自身ではいろんなことを脳の中で想像し、映像化できるけれども、他人はそれを見ることができないですよね?決して人の頭の中は覗き込むことができない。
ところが、この作品では、著者、吉村さんの想像する(と思われる)まともじゃない世界が、圧倒的な文章、言葉によってぐりぐりと描き出され、見たこともない世界が読者の脳の中にドボドボと侵入してきます。
人間は言語なくして思考はできないのですが、言語は人間が作り出したものである以上、人間の本来の思考よりも言語によって、より小さなもの、言語を飛び越えることができないものになってしまいます。
一般的に小説や物語を読むとき、または書かれるとき、ぼくたちは今ある世界での人間の立ち振る舞いが、物語として構築されていくものだと思いこんでいます。当然、SFのような想像上の世界もありますが、やはりそこで描かれるのも、人間が紡ぎだす物語です。
しかし、この3作品は、作品中の設定をすべて人間が人間でなくなる状態へ追い込むことによって、言語の限界を超えていこうとする、小説の限界を超えていこうとする試みのようなものを感じます。
人は、理解不能なもの、いままで出会ったことがないものについては、なにかしら気持ち悪さや違和感を感じると思うのですが、この作品群は、異常な進化をする人間や、原始的な宇宙生物や、その生物から身を守るために直腸を引きずり出す人間たちが気持ち悪いのではなく、いままで自分たちが読んだ文学や小説、または物語、言語での表現について、知らぬ間に「こういうものだ」と経験上固定されてしまったものを、吉村さんがこの小説を通して言語での表現を超えていこう、ぶち壊していこう!とするところに、自分自身に対する違和感や気持ち悪さを感じるのではないかと思います。
以前、ぼくは「読書はポコンを探す作業」と書きましたが、吉村さんの作品は「ポコン」どころか「どかん!」がさんたくさん埋められています。
気持ち悪くなる覚悟をもって、ぜひ吉村さんの作品を読んでみてほしいと思います。