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団塊の両親の虐待と、安全でない家庭環境
母の料理は、父が居ないときは、いつもやっつけ仕事です。毎日(私は早く休みたいんだ。作ってやってるんだから、さっさと食べてくれ。)と、まるで流れ作業でした。そんな母は、早くから私を家事要員として求めてきました。お姉ちゃんということもあり、私は母の愚痴を聞く、慰める、体の心配をするは、当たり前でした。例えそれが、子どもらしくなかったとしても、毎日毎晩、死を口にする彼女は、とても放っては置けない存在として、子ども心に重くのしかかりました。
ある時、母の愚痴を無視したことがありました。たまたまいた父は、酔っ払った勢いの末に、中学生になったばかりの私を思い切りぶん殴って張り飛ばしました。顔は変形し、流石に母も慌てて、跡が残ると言っていましたが、それだけです。
子どもの私達は、よく、高熱を出したり、吐いたり、腹痛を起こしたりしていました。私は、肺炎にもかかりましたが、それは、両親の虐待によるストレスと、妊娠中も二人して吸っていた煙草のせいだと考えています。それだけ、父はアル中でしたが、母のニコチン中毒も酷いものでした。家族の外出が、困難だったのは、このせいでした。二人とも酒と煙草がきれるとおかしくなるから、外出は短めで、ほとんどなかったのです。二人とも、酒と煙草の奴隷です。不意に腹痛に襲われることが今もあります。母の生き生きするときは、私達が床にふせっているときでした。
そんな私の唯一の世界は、本でした。うん十年変わっていません。本がありとあらゆる私の、救いでした。
つづく