GOOGLE先生が 高齢者の値打ちを下げた
最近はCOVID-19に関する話題が多かった。ちょっと気になったことが有ったので、今日は違ったことを書きたいと思う。
必要な情報は どこにでも落ちている
ショッキングなタイトルだが、これは高齢者予備軍である私自身への戒めという意味もある。近年、年寄りの社会的地位が下がったのは間違いないことだろう。
その理由についてだが、ひとことで言うと、「誰でも容易に、情報を得ることができるようになった」からである。つまり、GOOGLE先生が年寄りの値打ちを下げたのである。
違う言葉でいうならば、知りたい情報はどこにでも落ちている。今の時代は、「持っている知識の量というよりは、いかにして必要な知識を得ることができるのか」という部分で、個人の能力が大きく評価される傾向がある。
とはいっても、「知識の吸収力 理解力 吐出力」は求められるので、このあたりは注意が必要だ。このあたりを磨くためには、サイトを読みあさるだけでは足りない。日頃から相手を意識して文章を書くことが必要である。
少々脱線したので話を元に戻すと、現代社会では、情報収集力とOUTPUT力の双方が必要である。ここであなたは既に、お気づきでは無いだろうか? これらはいずれも、歳を取るにつれ劣っていく能力だ。そう考えてみると、高齢者のYOUTUBERが少ないのは当然と言えるだろう。
YOUTUBERの多くは、どこかから知識を得て、それをOUTPUTしているだけである。ところが高齢者にとって一連の作業は、かなりハードルが高い。
「教えておじいさん」がなくなり
近年になって、歳を取るというのは殆ど何ごとにおいても「堕落」だと実感する。誤解が無いように申し上げておくが、ここでいう堕落とは何も酒やバクチに溺れて自堕落な生活を送るようになったという意味では無い。
そういった意味で堕落というよりは凋落と呼んだ方が良いのかもしれないが、凋落という言葉にはもっと寂しい響きが有るので、少しはまだ救いが残る堕落の方を使うことにする。
堕落とは、「それまでできていたことが、ちゃんとできなくなる状態」を指す言葉とボクは捉えている。つまり歳を取ることで人間は殆どの場合、能力的に落ちていくのである。それは体力や気力の衰えだけではなく、他人の言うことに耳を貸さなかったり素直に謝れなかったりといったメンタル面でのことも含まれる。
一昔前なら、お年寄りは躊躇無く尊敬される存在であった。だが昨今は、誰もが平然と高齢者の悪口を口にする。そういった風潮に問題が無いとはいわないが、少なくとも昔に比べると高齢者は尊敬される存在で無くなってきている。
ここで、「歳を取ることで、積み重なっていく物も有るでしょう?」と仰る優しい方も多いことだろう。確かにその通りである。知識や経験などは生きている年月に比例して豊富になっていく類の物である。そういった意味で、この意見は正しいかもしれない。
だがその知識や経験を、昨日や今日に仕事を始めたばかりの人が容易に得られるようになったとしたら、どうなるだろう? いや! 現代はそういった社会になってしまったのである。
私が昔見たアニメの「アルプスの少女ハイジ」は、なかなか心温まる物語だったが、オープニング曲で「教えておじいさん!」という歌詞の一節があった。今の時代では考えられないことである。
ディズニーアニメの元祖である「子鹿のバンビ」のテーマ曲でも、「みみずくおじさん いってたよ」という歌詞があり、ストーリーの中でも森の中では歳を取ったミミズクが長老として尊敬されている様が盛り込まれていたように記憶している。
しかしながら昨今では、あまり年寄りに物事を尋ねない風潮がある。その理由は明白で有る。年寄りに聞いても、役に立つ情報が得られないからだ。だからこそ、誰もがGOOGLE先生を頼るのである。
高齢=尊敬では無い
尊敬という概念は、アドラーでいう承認欲求の塊じゃないかと仰る方も多いだろう。だが人にとって尊厳にどのような意味があるのかと問うたとき、私は少しだけアドラー先生に反論してみたくなる。
誰かを尊敬するというのは、自分がこれから生きていく目標が出来るということであり、自分もそうなりたいと願うことである。尊敬という概念は決して一方通行の物ではない。そしてそういった意味で、「尊敬すること されたいと願うこと」は生きる上で不可欠と感じるのである。少なくとも、私にとってはそうなのだ。
ここでふと浮かんでくるのは、尊敬に年齢なんか必要ないんじゃ無いかという疑念である。つまりそれは、高齢=尊敬と決めつけてしまうことに無理があるということでもある。ざっくばらんに言うと、若くても偉い人は偉いし、年配になっても自分のことしか考えられない人だってたくさんいる。
いやそれどころか、孫も居る年齢になっても、ずっと誰かに迷惑をかけ続けている人も多い。先に書いたが、老いるということは往々にして「これまでできていたことができなくなる」現象だからだ。
本当に尊厳を求めるのなら、今後、高齢者はこれまでと少し違った生き方を選択する必要があるのでは無いだろうか?
今 私にできること
これは何も高齢者に限った話では無いが、武勇伝を話す人が多い。というか、自分では話していないつもりでも、周囲の人たちからそう感じられるというケースである。これは私自身も含めてそう感じることである。
武勇伝を語って疎まれられる人についてだが、特に新しいことに取り組まず、自分を変えたり高めたりしようとしない人に、そういった傾向が強いようである。ひとことで言えば、前を向かず後ろばかり見ている人である。言わずもがな、その対象に該当するのは高齢者が多いだろう。
だが役に立つことは大抵の場合、武勇伝ではなく失敗談の中に落ちている。なぜなら失敗談の中には、その人がどうやってその失敗を乗り越えたかというノウハウがちりばめられているからだ。
残念ながら今後、高齢者が知識力でGOOGLE先生に勝てることは無いだろう。しかしながらこれまで社会を支えてきた人たちには、GOOGLE先生とはまた違った力がみなぎっている。
そう考えてみると、今、私にできることは「失敗」を積み重ねるという結論に落ち着きそうである。ところが「やらない人」というのは、失敗にすら出会うことができない。
堕落している場合ではない、と感じる今日この頃である。(奥井 隆)