「耐え難い苦痛」の持ち主
こちらの本の感想になります。
印象深いのは、12章 一〇日間の涙 の中での、患者本人がもうその時が来たと訴えても医療側になかなか認めてもらえない場面。
読後「耐え難い苦痛」について考えてしまう。
安楽死が認められないわが国においても、継続的に医者にかかっていていよいよ、そして苦痛極まり断末魔、というレベルになれば持続的深い鎮静という手段があるらしい。
だけどそれをやってもらえるのは、主治医をはじめその病院のキーパーソンから「これは耐え難い苦痛である」とお墨付きを貰えた場合に限るらしい。
いくら今痛くたって苦しくたって、今この治療を乗り越えたらまた日常生活に戻ることができる、というなら適用されないのはわかる。
しかし持続的深い鎮静をするかしないかを検討する段階というのは、もうすでに医者も治癒の見込み無し、近いうちに亡くなるということを想定しているはずなのであって、その近いうちに亡くなるはずの当人が、こんな苦しみはショートカットさせてくれと言ったときに、その苦しみの評価をどうして他人である主治医や病棟スタッフの主観で行われるんだろう。
「まだだ、まだまだもっと死に際の苦しみを味わうのだ・・・」
とでも言いたいのかと叫びたくなる。
この苦痛は耐えがたい、と感じているのは患者本人でしかないのに、1ミリも痛くない他人がなぜ患者の表層に現れる表情や声やふるまいで評価して実行の可否を判断するんだ。苦痛さ表現力コンテストか。
定量的に苦痛を評価できる検査でも開発されればいいのだろうけど、苦痛や、耐えがたさというのは主観の余地が広すぎて近い将来に定量化検査が実現するとも思えない。苦痛とは肉体的な痛みの程度のみを指すものではなく、精神的な絶望や恐怖も内包しているのではないのか。そこまで含めた患者本人の心象風景を関係者全員で見ようとしているのか。
生きていてももう健康な自分に戻ることはない、その上で痛みをある程度薬などでコントロールしながらの日々で得られる多少の喜び、おいしいものが食べられたとか、大切な人と言葉を交わしたとか、夕焼けがきれいだったとか、そんな生きているうえでのちいさなプラス要素を手掛かりに、命尽きる時まで生き続けて欲しい、というのが医療側の本音なんだろう。
人を助けて生かすために勉強し訓練してきた人たちだから、もう生きていたくないという想いを正面から受け止めると自分の存在意義がぐらぐらしてしまうのだろうか。患者の命をなんとか繋ぐことに医療側が執着しなくなったらそれもそれでいかがなものかとは思わなくもないが。
患者側は、生きていれば多少の良いことも起こり得ることも分かったうえで、耐えがたい苦痛という巨大なマイナス要素から逃れられるなら多少のプラス要素なぞもう要らない、という計算の結果として眠りたいと言う答えを導き出しているのだろうに。
著者の緩和ケア医である西先生は、目の前の患者に生きて欲しいと思いながらも眠ることを望む苦痛の持ち主の側にも立ち、揺れ動く。そしていよいよの段になって、カンファレンスで両者の間に立った絶妙な立ち回りで持続的深い鎮静実施の合意を得る。そして患者さんは当初の希望するタイミングよりは遅れたものの、その間も西先生をはじめとする担当スタッフが真摯であったことに心の一部が満たされて、良い思い出を胸に旅立てると涙ながらに語った。
そこに西先生がいて良かったね、でも私がそうなった時にはそこに西先生のような人はいてくれるのかな?
生きている事そのものを、喜ぶことができないでいる人間の存在は医療者側の視野に入っているのだろうか。
その患者さんが元来望んでいた安楽死、今の日本で行えば医師は自殺ほう助の罪を負う。
持続的深い鎮静を行うにあたっても主治医一人の判断でなく関係者の合意の上で成立するので価値観によってなかなか認めてもらえない。
苦痛が耐え難いからといって自死を選んでしまえば残された周囲の人への心理的影響も迷惑のかけ具合も気になる。
安心して自ら納得ずくで人生をシャットダウンする手段がない。
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