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烏瓜の灯り 銀河鉄道の夜を読んで
烏瓜の灯りと銀河鉄道
銀河鉄道の夜、には烏瓜が出てきます。烏瓜の中に灯りを入れて祭りの夜を照らすのです。
烏瓜、と聞くと幼い頃を思い出します。
実家の裏は雑木林で、秋になり少し肌寒くなってくると烏瓜の実が生えているのをよく見かけました。
烏瓜の実はアケビと形が似ています。
海に沈んでいく直前の夕日のように紅い色に色付いた烏瓜の実を見上げながら、アケビと同じく割った中の実は甘く美味しいのではないか?とやまなしのお酒を待つ蟹たちのように幼い私は一人眺めていました。
銀河鉄道の夜。
綺麗な文章だな。ずっとそう思っていましたが、さっと撫でるようにしか読めないのです。
心当たりはあります。
ちょうどジョバンニやカムパネルラぐらいの歳にいじめられていたことを思い出すからでしょう。原因は、同じクラスの中心的女子が好きだった男子の隣の家に私が住んでいたから。それが気に食わなかったようです。
確かにいじめっ子の想い人と家は隣同士でしたが、それだけで当の子供同士は仲良くも悪くもなく、何の事実のない言いがかりです。家が隣同士のことが問題なら、解決には引っ越すことが一番手っ取り早いですが、そんなこと出来るわけもなく子供にはどうしようもないことでした。
ジョバンニのお母さんが具合のよくないことは子供のジョバンニにはどうしょうもないことで、ジョバンニのお父さんがらっこの密猟で捕まった噂も事実無根です。もう30年以上前の事なのに紅い烏瓜を1人眺めていた頃の自分と重なり、胸が痛く悲しくなるのです。
銀河鉄道ステーション
銀河ステーションから出発した銀河鉄道は亡くなった人が乗っている電車です。
亡くなった人が乗っている電車の話は、都市伝説や怪談話でも聞く内容です。夜遅くホームへ入ってきた電車へ乗ったら周りの乗客、電車内の空気がなんだかおかしい。途中で下車し、その後電車に乗っていた人たちは亡くなった人たちで実はあの世行きの電車だった、なんて話もあります。
双方、一歩間違えば自分もあの世へ逝ってしまう恐ろしさがあります。宮沢賢治の銀河鉄道の夜に大きな恐怖を感じないのは、銀河鉄道の窓から見える景色、銀河鉄道の内装、銀河鉄道に乗っている人たちを美しく表現しているからでしょう。1番好きなのは青いびろうどを張った座席です。きっとふかふかで座り心地も良いに違いありません。ここに座ってチョコレートよりも美味しい黄色い雁の足をぜひ、窓の外を見ながら食べたいものです。
烏瓜の話もそうですが、結局私は色気より食い気なのでしょうか。
宮沢賢治について
宮沢賢治は銀河鉄道に乗っていた人たちに対し、亡くなった時の絶望感だけを抱えさせたまま下車させませんでした。幼い姉弟には裸足だった足に白い柔らかな靴を履かせ、黄金と紅の大きな苹果を与えています。
亡くなった人に対して、生きている私たちが出来ることはあの世で後悔や苦しみなく安らかにいることを祈り、願うことだけです。草履ではなく、白い柔らかな靴を履かせるあたりきっと心根の優しい人だったのでしょう。
実家は商家だったとのことですが、確かに商人には向かないかもしれませんね。
銀河鉄道の夜を読むと眩く輝く星の光が足元に敷き詰められていてるようでどんなに暗い寂しい場所で読んでいても目の前が眩しい感覚に襲われます。
でも、どんなに光で明るい場所に居ようとも、綺麗なもので照らそうとも身体の中にある心の暗さを完全に無くすことはできないのです。銀河鉄道の夜に出てくる光は宮沢賢治の心苦しさを晴らすために求めた明るさに見えて仕方ありません。
宮沢賢治は実の父親とは折り合いが悪く、今でこそ映像化や舞台化もされ学校の教科書にも掲載されたりと高い評価を受けていますが、宮沢賢治の生前はほぼ評価されなかったとのこと。宮沢賢治自身の亡くなる直前の言葉は『とうとうお父さんに褒められた』であったことから、死後100年近く経っても多くの人たちの記憶に残りそして語り継がれたことは本望かもしれませんが、それよりもきっと生前、父親から褒められたかったのではないでしょうか。
彼も彼の父親も亡き今、それはもう叶いません。生きている私たちが出来ることは祈り願うことだけです。
どうかあの世にいる宮沢賢治へ私達の声が届いていますように。