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なぜ、損得勘定では幸福になれないのか?その1 幸福になるための論理②

 さて、「どうすれば幸福になれるか」を論理的に語るシリーズ、2回目の今回と3回目の次回は、幸福になるために必須の「貢献」という行為の性質を深掘りしていきます。

 よく、「情けは人のためならず」といって、他者に見返りを求めることなく行う行為が社会的に賞賛されますよね。
 子供のころから私たちは、親や学校でそのような人間になるように何度も何度も言い聞かされてきたはずです。

 一方、私たちは「偽善」を嫌いますよね。「いい人だ」と思われたいがゆえに友人に親切をする行為。恩を売りたいだけの押し売りのような優しさ。これらについての整理に悩んでいる方も多いのではないでしょうか。私もそうでした。

 この一見矛盾する貢献=贈与への社会的賞賛と、人間関係においてそれを偽善と感じてしまう感情をどう説明したらよいのでしょうか。

1 前回のおさらいと今回のテーマ「貢献=贈与」について

 前回(初回)では、幸福とは貢献感であり、私たちは存在しているだけで貢献しているのだから、私たちはいつでも想像力をめぐらせることにより幸福を実感できるという内容でした。

 さて、この全人類が感じられる「生きているだけで幸福」という「生きるベース」があったうえで、私が日々どう生きていくか。さらに幸福感を持続的に満たしていくにはどうしたらよいか。幸福を阻害する要因は何か。

これらのキーワードになるのが、「贈与」です。

 贈与とは、貢献をより広くとらえた表現です。
 私たちの感覚的には、「貢献」と「贈与」は違うと感じるかもしれません。その点についても本文の中で触れます。

2 今回の参考文献の紹介

今回の参考文献は、こちらになります。

 気鋭の哲学者のデビュー作ですが、私はこの本から人生の考え方を根本的に覆されました。この記事の内容に興味のある方は、是非お読みください。感動の嵐が体験できます。

3 贈与と交換の違い

 私たちは、何をするか決める際、自分が払う犠牲に対し、どれほどの利益が得られるかを考え、これが釣り合うかどうかを常に考えて行動しているでしょう。

 この発想こそ、「交換」の発想です。

 例えば買い物は典型ですよね。払う対価に対し、得られるモノやサービスの利益の大きさがを比較した上で、釣り合うかもしくは利益の方が大きいときに、私たちはお金を払います。

 多くの場合、労働もそうかもしれません。組織のための働きの大きさや時間に対して、給料という利益が釣り合うかどうか。または自分が上司に正当に評価されているかどうか。多くの場合、不当に安く雇われていると感じたときや、自分の働きが分かってもらえていないと感じたときに、仕事に行くのがつらいと考えるのではないでしょうか。

 また、お決まりの議論で言えば、「努力は報われるか報われないか」問題もそうです。この問いが成立し意味が通っているということこそが、皆が「交換」の発想にとらわれているという証拠なのです。
 
 というのも、「努力という犠牲に対し、成功などの利益の大きさが見合うかどうか」ということであり、まさに交換の発想そのものを体現した問いだからです。

 一方、「贈与」は違います。

 贈与は、見返りとなる利益を求めて行う行為ではありません。贈与をし、「ありがとう」という感謝の果実を得るためのものでもありません。贈与はもっと積極的、献身的なものであり、贈与の対象である相手がどのような反応を示すかではなく、贈与するという行為自身が目的になっている面があるものです。

 これこそ、冒頭で述べた「情けは人のためならず」の精神です。贈与という行為を通じて、自分自身が貢献感を得る行為。これが贈与です。

 ここで、よく「長期的に見れば、自ら与える(贈与)する者が成功し、自らが行った行為は巡り巡って自分に返ってくる」という考えとの関係が問題になります。

 ただし、この考えは、よくよく見てみれば「交換」の発想です。

 いずれ「自分に返ってくる」のだから、「今は贈与(プレゼント)しておこう」という発想や行為。

 これを日本語で言うとなんというのか、私たちは知っています。

 「偽善」です。

 ここで、冒頭述べた、私たちがなぜ賞賛を得るためだけの親切を偽善と感じるのかの答えにたどり着きました。私たちは、診察の裏に隠された利益につなげようという「交換」の発想の匂いを嗅ぎ取り、これを「偽善だ」と感じるからだったのです。

 つまり、純粋な贈与とは、「長期的な巡り巡って戻ってくる利益」すら想定しない、一切の計算のない行為なのです。

 そんな行為が本当に存在するのでしょうか。

4 贈与が幸福をつくる

 私たちの感覚では、いかなる人格者でも、何一つ自己利益を考えない純粋な贈与ができるとは思いませんよね。慈善団体に寄付したとしても、「寄付した立派な人だと思われたい、寄付先に感謝されたい」など自己利益計算が必ず働いているはずである、と。
 または、この殺伐とした世界では、そんなキレイゴトだけでは生きていけない、とも思うかもしれない。
 しかし実は、幸福感を感じる(貢献感を感じる)ためには、純粋な贈与が欠かせません。
 考えてみてください。常にお互いの利益を一致させるWin-Winの自由契約のみで個人間、組織間のコミュニケーションが構築される世界を。

 晩ご飯に肉じゃがを作りすぎたので、隣人におすそわけするとします。その際、こんなやりとりがあったら嫌じゃないですか?

「肉じゃがを作りすぎてしまったので、おすそわけにきました。おすそわけ交換契約をお願いします。」
「あら、じゃあちょっと評価するわね。食品時価価格表によるとじゃがいもがこの量だと50円、豚肉が200円、調味料、調理人件費含め400円ってとこかしら。ただ味の補償がされていないというリスクも評価に入れると300円ね。今すぐ現金で支払うか、長期的に今後様々な親切という行為でお返しするのどちらがいい?」
「あ、じゃあこれは長期的な関係を良好にしたいがための交換契約なので、お返しで」
「分かったわ。契約書はいつものラインアプリで」
「分かりました。」
※ずっとお互い無表情

 どうでしょうか。この感謝も何もない、全てが無機質なやりとりに貢献感を感じられますか?いや、こんな世界誰も住みたくないですよね。

 つまり、私たちのこの社会は、交換と贈与が入り乱れた複雑な人間関係でできており、贈与も確かに存在しているのです。そして贈与は大きな役割を果たしています。その中に多くの偽善(贈与に見せかけた交換)が存在するとしても。
 そして、この贈与こそ他者貢献であり、幸福につながる行為なのです。

5 贈与した側の不公平感をどうするか(次回予告)

 こう述べると、こんな声が聞こえてきそうです。

「贈与が幸福だなんて、超余裕のある大金持ちのキレイゴトだ。そんなの机上の空論であって、私たちには日々の生活があるんだ。しかも私は十分すぎるほど他者貢献している。その見返りがないので日々悶々としているんだ!なんで私がこんなにがんばっているのに報われないんだ!」etc...

 この考えこそ、「交換」の発想にとらわれているのですが、たしかに私たちがよく感じる以下の感情については、どうすればよいか考えるべきでしょう。

それは、『不公平感』です。

「こんなに親切にしてあげたのにあの人は得してばかり、私は損してばかり」という感じ、誰もが経験したことあると思います。

 この感情といかに向き合うか、次回の内容で解決します。

 ではまた。

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