小さい頃、正義のヒーローになりたかった
幼稚園の年長組で行ったお遊戯会のキャスト決めで、ピーターパンへの志願者があまりに多く、
自分だってピーターパンになりたかったのだけれど、「僕がやらねば」という正義感を持ち、フック船長を志願したのを覚えている。
ちなみにそのお遊戯会は、大量のピーターパンに1人のフック船長がリンチされてハッピーエンドを迎える事になる。
どこから湧いたのか定かではない鬱陶しい程の正義感を持っていた僕は、
また違う場面で、園に持ってきてはいけないミニカーを持ってきたお友達を「ルールは絶対!!僕が正義!!」と追い詰め泣かせてしまった記憶もある。
とにかく正義の反対は悪だと信じていた。正しいの反対は悪いだと信じていた。そして、正義のヒーローになりたかった。
"悪い"が無くなれば皆幸せになれると心から思っていたから。
"全く余談だが、何度も練習した、忍者戦隊カクレンジャーの変身ポーズを忘れてしまって、変身する事が出来ず、敵に倒されかける"という夢を見て飛び起きた記憶がしつこい程に残っている。
ところがどっこい、29年間生きてきて、実は正義の反対が悪ではなく、もう一つの正義なのかもしれないと感じることが沢山あった。
自分が正義だと思っているコトが、誰かから見れば悪なのかもしれないと感じることも沢山あった。
「悪い事をしているなら倒せばいい」と思っていた"悪"にも、そうなるまでのストーリーがあり、"悪"を倒そうとすると悲しむ方々が、"悪"だと思っていた側にも沢山いるのかもしれないと感じることが沢山あった。
(2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」結果発表より)
誰かの言動の背景には、その方の信念があり、また別の方には別の方の信念があり、そんな信念同士がぶつかり合って対立を生むらしい、
そんな事象の解決に向けた営みの一つを信念対立解明アプローチと呼ぶらしいということも学んだ。(それら概念を知っているという事と、やっている、出来ているという事は別だが)
そんなこんなで、年長組だった頃の僕が聞けばびっくりするかもしれないが、なんと今はヒーローになることを望んではいない。
大半が思い込みである正義感は、人生のコンテクストの中に置いてきたつもりだ。
ただそれでも、"お互いが正義だと信じ込んでいる誰かと誰か" の闘いに巻き込まれて怪我を負っていく方が出てしまうのは苦しいな、なんとかしたいな、と思ってしまう。
「そんな他人同士の闘いで怪我を負わないぐらいに強くならなければ」という意見もあるのかもしれないけれど。
「傷を負いました」という連絡をいただく事が多くあると、強く怒りや悲しみの感情が湧いてしまう自分や、置いてきたはずの正義感をすぐに拾いに行き、闘いそうになる自分がいる。
そんな事をしてもまた、それは僕から見た正義でしかなく、またその闘いに巻き込まれて怪我を負う方が現れるだけなのに。
弱いなあ。そしてきっと年長組の頃の自分と変わらぬくらいにまだまだ幼い。そんな自分に背負いきれるものなんて、登園時に使っていたリュックに入る程度のものなはずなのに。
自分の敵はやはり、大概自分なのだろうと思う。
2020年1月19日 木村彰宏