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真面目とは何か:自己との対話

真面目とよく言われる人生には、何だかデメリットしかないように思える。
自分がそうだからだ。

自分自身のことを真面目だと思ったことは一度も無いが、大抵の人は「君は真面目だね」と優しい笑みを浮かべる。

何をもって、真面目と判断するのだろうか。
辞書はこんな風に言っている。

うそやいい加減なところがなく、真剣であること。
本気であること。
真心のあること。
誠実であること。

自分は自分自身のことが、馬鹿で不真面目で傲慢で矮小な逆張りオタクだと考えている。

うそは誰だって吐くだろう。
たとえそれがホワイトライ、やさしいうそだったとしても、それはうそだ。

いい加減なところなんて腐るほどある。
自分がやりたいと思ったことが面倒でやれない。
ここまでを目標にしてやりきりたいと思っても、途中で面倒くさくなって投げ出してしまう。

真剣であることはない。
真の意味で真剣に取り組める人間なんて果たしているだろうか。たとえば、自分はプライベートで関わることで真剣になれない。

自分に関することは自分で責任が負えるから、どれだけネグレクトしても自分が悪いで済んでしまう。

友達や家族に対しても、真剣に接することはできない。
その人自身の考え方は百分の一も分かってあげることはできないし、その人の人生を変えるほどの裁量は一個人に与えられていないと思う。

それでも、人は僕のことを真面目だという。

こういった、自分に対しての認識が自己と他者で違うことであの4つに分かれたマトリクスを思い出す。

ジョハリの窓と言われる物だ。

この画像でいえば、今の話は「盲点の窓」にあたることだ。

ただ、他人から言われたことで自己認識している性質は変わらない。

いつまでも、それこそ死ぬまで真面目だと言われ続け、自分は不真面目だと反論し続けるだろう。

しかし、間違った自己認識は不必要な自己嫌悪を呼び起こすだろう。
本当の意味での味方は自分自身しかいないのに、その自分が最大の敵になってしまうことがある。

自分のことは、自分がよく分かっている。
自分のことは、自分が一番分かっていない。

どちらも正しく、どちらも間違っている。

矛盾しているように見えて、両立している事実。
おそらく、この話もおなじことなのだろう。

つまり、自分は真面目であり、不真面目である。

こうやって文章化すると、世界中の誰でも同じなんじゃ無いかと思う。

真面目で堅実な人間だって、体調管理を徹底していてもアイスやお菓子を食べたくなるし、食べるだろう。
不真面目で刹那的に生きる人間だって、ギャンブルで負け借金が対処出来ないレベルまで肥大化したとしても、愛した人間のためならば真面目に対応し、人生を変えることもできるだろう。

それならば、自分だって同じはずだ。

世間一般の人間がそうならば、自分もそうだ。
自分は特別じゃ無く、そこらへんにいる「世間一般の人間「でしかない。

自分の想像の範疇に収まってしまう人間だ。

ならば、そこまで真面目であるかどうかという問いに悩むこともない。
それが、普通の人間と同じであると確認できた。


ただまあ、普通の人間って何だ? といった話になるとこれまたややこしく、角が立つ話になってしまうので、このあたりでやめておこう。

少なくとも今後の自己認識は、 「不真面目だけど真面目でもある」 と考えておけばよいと分かっただけ、儲けものだろう。


最後に余談として、途中であげたジョハリの窓に戻ろう。

自分も他人も分かっていない、「道の窓」 ここに本当の自分がいて、それを明らかにすることで本当の能力が発揮される。

なんて意識高い系の人が言っていたように思う。 この部分を見つけるための方法論なんかもあるのかもしれないが、果たしてどうやって見つけるのか?

これもまた、今後考えるべき、学習すべき事項のようだ。

ひとまず頭の整理ができたようなので、このあたりで。