ゲイバーの扉を開けて
八月の前半二週間ほど、日本に一時帰国をした。二、三ヶ月に一度世話になっていた高校時代からの友人の美容師Yに髪を切ってもらった折、せっかくの一時帰国だし、当時の部活のメンバーで集まろう、という提案を受け、数名の同期と新宿で顔を合わせることになった。
私は酒に弱い。全く飲めないわけではないけれど、飲むとすぐに頭が痛くなる体質も手伝って、彼らとの飲みに参加するのは久しぶりだった。学生の飲みの常で、度数の強い酒を強要されることや、ソフトドリンクや水を頼むときに周りから向けられる視線が嫌で、しばらく参加を断っていた。今回も皆に酒が回り始めれば、同じようなことがあるんだろうな、と思いながら席に着いていたけれど、二軒目の店でも、その後に行ったダーツバーでも、アルコールの強要は起こらなかった。ダーツで最下位になったのに、テキーラを飲まされることがない。そんなところに、自分たちの成長と変化を感じていた。
それでも変わらずに残っている部分もあった。ダーツバーに入った時間から考えてもわかりきっていたことだが、案の定、その日は終電を逃した。始発まで新宿に留まらなければいけなくなった私たちは、今後数時間の方針を決めるため、ダーツバーの丸テーブルを囲んだ。夜の街に不案内な私は口を挟まずに、終電を逃すことは昔と変わらないんだな、と思いながら座っていると、いつの間にか話がまとまったようで、どういう経緯でか二丁目のゲイバーに行くということになっていた。
タクシーで二丁目の仲通りに着くと、その一帯のネオン街のビルを埋め尽くすように、バーやホテル、ナイトクラブなどの看板が、縦にも横にも所狭しと並んでいた。私たちは美容師の友人Yを先頭にして、とあるビルの地下に潜っていった。廊下にいくつか並んでいる扉の一つを開けると、八人ほどが掛けられるカウンター越しに、店のママがこちらを見て、
「あー!久しぶりー!」
と手を振ってきた。
「お久しぶりです。」
と返すYを見て、知り合いの店なのか、とこれまでのスムーズな歩みの理由がわかり、少し安心した。
仄暗い店内には他に三人の先客がいて、マイクを回し、カラオケを歌いながら、酒を飲み、ママと話をしていた。いわゆる性的マイノリティーではない私たちが入っていくことに、気を悪くしないかと心配していた私をよそに、ママも彼らも明るく受け入れてくれた。
gayという言葉には「同性愛の」という意味とは別に「陽気な」「快活な」という意味があるが、深夜の地下にある薄暗い一室は、まさに陽気さが体現したような場所だった。
焼酎のボトルを一本入れ、それぞれに割ってもらい、杯を合わせた。乾杯の際ママから、
「K子でーす」
と自己紹介があり、話の流れで、K子さんもYの客であることを知った。少しアルコールも入っていて、口が軽くなっている友人たちの横でひっそりと話を聞いている私を見て、
「無理やり連れてこられたでしょー」
と笑いかけてきた。
無理やりではないけれど、こういう場所が初めてなので若干緊張していた旨を伝えて、もう一度、少量の焼酎をジャスミン茶で割ってもらった。
K子さんはこの店に入ってから十年近くになるらしい。十年か、とこの月日の取り扱い方に迷い、会話が止まってしまった。今の会社に入って今年で五年目であるから、同じことをあともう一度繰り返せば、十年になるが、それはもう途方もないことのように感じる。一方で、朝の満員電車に揺られて高校に通っていた日々から十年以上の歳月が過ぎたと考えると、瞬く間に過ぎ去っていったその時間に愕然とした気持ちになる。こういうことを言葉にしてその場で伝えれば、話も広がるのだろうな、と思うが、その場ですぐにはできないものである。
K子さんの方は、この十年バーのママをやっていくうちにそうなったのか、もともとそうだったからこの仕事に就いたのかはわからないけれど、話すのも、話させるのもとても上手く、聴いているうちにこちらの緊張も解け、ぽつぽつと質問を投げかけてみたりもした。先客三人の歌うカラオケをBGMにしながら、物心が付いたときには、異性よりも同性に惹かれていたこと、この店に来たお客さんや深夜の新宿の片鱗について聞かせてくれた。ここに詳しくは書き記せないけれど、自分一人では踏み込むことのなかったであろう海への水先案内のようで、朝までの航海は一時の眠気も感じる暇なく幕を下ろした。
店を出たのは朝の四時を少し回った頃だった。二丁目の一帯を散歩するべく、始発電車が動き始める前に地上に出ることにした。K子さんは、
「もう帰っちゃうのー?」
と言いつつ、店の外まで見送りに来て、またね、と言って、迎えてくれたときと同じように手を振って別れた。
夏の朝は、太陽が地平線を越す前でもすでに明るく、東の空からは日中の蒸し暑さを予兆するように、日差しがこちらに伸びてきている。マジョリティーによって作られた都市の、その一画にあるマイノリティーのネオン街。朝の光に包まれながら、クラブからは昨夜と同じ喧しさが奔り出ている。客引きの声や、酔っ払いと警察とのやりとりに掻き消され、昨夜は気づかなかったけれど、目覚め前の新宿では、生を謳歌する蝉がそこここに鳴いていた。都市に追いやられて、もうここにはないと思っていた自然が、それでも場所を見つけて、存在を主張している。もうここで終わり、と思った場所からもう一歩奥に進んだ場所にある陽気な世界を歩きながらYが話し始めた。
「K子さんも、店ではあんなふうに明るいじゃん。でもうちに切りに来るときには、ほとんど喋らなくて、落ち込んでることが多いんだ。休みの日は人と会ったりするのが面倒で、引きこもってるって笑いながら言ってたけど、多分、大変なんだと思う。この界隈は昨日まで元気そうに見えてた人が急に亡くなっちゃうことも多いみたいだし。」
この日過ごした陽気な夜も、朝の日差しも蝉の声も、外からは見えない人間内部の薄暗さを対照するものであるように感じた。先程まで、K子さんの話を聞き、未知の海を航海した気になっていたが、その実は、ただ数時間、浅瀬に立っていただけだったのかもしれない。寄せては返す波打ち際で、足を濡らしているだけの外部の人間が触れていいことではないけれど、K子さんが外に出す陽気さの中心には、それと反作用するように、内部に渦巻く苦しさもきっとあるのだろう。
※誰に読まれる文章でもないけれど、登場人物のイニシャルなどには変更を加えて書いた。
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