腕時計と余~自動巻きへ愛を込めて~
一心同体性・心臓との距離感
自動巻きと手巻きの違い、どっちがより好きなんだろう?
ヴィンテージウッチ沼に漬かりはじめてはや数か月、時計を手に取るたび、腕に巻く度、脳裏ににこびりついているこの問いが頭をもたげてくる。
曰く先人たち、「手巻きはいいゾ~ 自分で時計を動かしてるってかんじがするんだよね」
わかる。
自分の機械式時計を追っかけるモチベーションやその源泉も、「自分きっかけで動く機械を身に着ける歓び」だから。
でも、なんか最近、自動巻きがほっとけない。
気になる、というかグッとくるものがある。
なんでだろうね。
考えてみよう。
思うに、
自動巻き:
鼓動→身体の動き(鼓動の出力結果)を生む→それがすなわち時計にエネルギーを吹き込む
手巻き:
鼓動→ゼンマイを巻く手の動きを生み出す→ゼンマイが巻かれる
というフロー(だと思っている)。
(書き出してみたら)工数は同じ。。。
なんだけど、 鼓動とゼンマイが巻かれるのを繋ぐアクションが、よりナチュラル=鼓動の、純粋な出力結果、感があっていいのかも。
ゼンマイをまくための動きが、自動巻き:身体の身体のための動き、であるか、手巻き:わざわざ時計を動かすためのそれ専用の動き、かの違い、
イメージでいうと鼓動とゼンマイの巻き上げとを繋ぐギア、がよりダイレクトにロスがない(?)でつながっているか?
身体が動く、生きることがすなわち時計にエネルギーを送っている感。
自分の心臓→身体の動き→時計にエネルギー(時計の鼓動を生む) がよりダイレクトであるかどうか?、が違いであり、最近なんだか自動巻きにグッと来る魅力なんだろう。
手巻きっていう、【時計を動かすそれ専用の動き】をしなくとも、 オーナーのあるがままの活動が時計にもエネルギーを与える/心臓によって身体が動かされ、それがそのまま時計を動かす=一つの心臓で以って、身体と時計が同時にエネルギーを与えられている(電池の回路でいうと並列みたいな?)イメージ。
心臓を同じくしている その近さ=まさに“一心”同体性であり、心臓との時計との距離感が近い ってことかな?
なんてことをゴチャゴチャ考えながら、
「明日はどの時計を巻こうか」だけを楽しみに止められない平日へと向かっていく日曜日の夜更け。
ちくたくちくたく