外向き
1年前のスマホのメモ、インスタサブアカの言葉とか読み返すと、こいつ(わたし)は何分かりきってることに対してくどくど反発してんだろう…って冷めた気持ちになる
なぜそう思うのか3点に分けて考えた
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①反骨心について
(例えば、自分と他人が別個の個体であるとか、マジョリティの理屈で世の中が動くこととか、ずっと甘えてはいられないこととか)
こういうこと今はニュートラルに感じるんだけど、去年はイライラして仕方なかった、全てを破壊し尽くしてやる😠くらいに思ってた。ので、むやみやたらに大きなものや正論にかみつく傾向があったし、無思考逆張り人間だった
しかし、無闇に反(アンチ)の姿勢を取るより、脱(ポスト)を構想しないとなにも進まないし、脱を構想するには現実を正しく見つめる必要がある
😉
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②内面の探求について
自分の内面を深く掘りすぎて戻ってこれなくなる、何も楽しくない、ダウン😇みたいなことを去年はちょいちょい起こしていて、
そういう時は外部世界に対してめちゃくちゃ斜に構えてるというか もっと奥の本質をみつめろ‼️みたいな謎の選民意識を持ってしまう
内面の探求とか自己理解自体は悪くないと思うんだけど、それが「特別なわたし」みたいな自意識に結びつくと、★普通にヘルシーでは無い★
内面の探求はまず自分が心地よくなりたいから自分のためにするものであり、他者に自分の(特別さを^^繊細な精神性を^^)説明するためになると
ほんと、しょうもない
(だからやっぱインスタの日記サブアカ消してよかったなって思った)
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③コミュニケーションについて
②に関係するが、とかく人と関わるって時に対話になっちゃって、あなたが心の奥に抱えてるものまで全部みせてよ、私も全部見せるから みたいな、なんか人と会う時互いの内面を見せあっちゃうみたいな。そういう危うさが一昨年去年はほんとに酷かった
図示しましょう
〇⇄○ こういうことばっかしてたのだ
で、こういうコミュニケーションのとり方は、外部にある美しいものをガン無視して、お互いじめじめと沈んでいくような重苦しさをときに生み出す。
やりすぎたら傷の舐め合いにしかなんね〜んだよ〜
○ ○
↘️↙️
🐱
⬆️こういう、美しいものを一緒に見て楽しいね、2人で楽しいことして楽しいね 的な 外向きのコミュニケーションをもっとする必要がめちゃくちゃにある
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うー、なんか言語化すんのほんとに下手になったな。でもそれでいいんだと思う。つまりは口だけ人間をやめろってことだから
インプットしてないのにアウトプットしてもあんまり意味ない それは創作じゃなくて単なる現状整理と追認で 進んでない
がんばる
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